先般、イタリアのジョルジャ・メローニ首相が来日した際、日本の主要メディアがその動向をほとんど報じなかったことに、違和感を覚えた人は少なくないでしょう。
G7参加国の現職首相であり、欧州政治において重要な存在感を放つ人物の来日が、これほど静かに通り過ぎるのは異例です。
この沈黙は、単なる取材不足や編集上の判断によるものではありません。
日本のメディアがメローニ首相を「どう語ればよいか分からない」という構造的困難を抱えていることの表れです。
日本の政治報道は、長年にわたり単純な二分法で整理されてきました。
・リベラルか、保守か
・右派は危険、左派は進歩
・ナショナリズムは警戒対象
しかしメローニ首相は、保守・右派の政治家であるにもかかわらず、日本の政治報道が前提としてきた「右派=危険」「ナショナリズム=警戒対象」という単線的な分類には収まりません。
彼女は、NATOを支持し、ウクライナ支援を明確にし、EU離脱は否定する一方で、国家主権、民主的正統性、決定責任の所在を正面から語ります。
これは、日本のメディアの既存フレームでは整理しきれない存在です。
「極右」と単純化すれば事実とズレる。
しかし丁寧に説明すれば、日本の政治や統治構造との類似が浮かび上がってしまう。
そのため、日本のメディアにとって扱いにくい存在となります。
要するに、日本の政治報道が慣れ親しんできた「単線的な分類」にメローニ首相が収まらないため、批判も断罪も定型化できず、結果として報道できなかったのです。
メローニ首相の政治言語の中核には、「主権」「国家」「国民」「責任」があります。
ところが日本の戦後メディア空間では、これらの言葉は長年、慎重に避けられてきました。
主権や国益を語ることは、しばしば「右翼的」「危険」と結びつけられ、報道の主語から外されてきました。
その結果、日本の政治報道では、「市場が決めた」「専門家が判断した」「国際的に決まっている」といった、責任主体を曖昧にする言葉が多用されるようになりました。
メローニ首相を正面から紹介するということは、これらの言語習慣そのものを問い直すことになります。
日本のメディアにとって、それは決して容易な作業ではありません。
メローニ首相をきちんと報じれば、必然的に、日本の政治そのものに向けた問いが立ち上がります。
なぜイタリアでは、「誰が決め、誰が責任を取るのか」を明示する政治が前面に出てくるのか。
なぜ日本では、「誰が決めているのか分からない政治」「専門家に判断を委ねることで責任が曖昧になる政治」が常態化しているのか。
この問いは、日本のPB目標や財政規律、日銀の独立、市場万能論といった戦後日本の統治前提を相対化します。
メローニ首相は、日本政治の欠落を映し出す「鏡」になってしまうのです。
メディアがその鏡を正面から扱うには、相応の覚悟と説明能力が求められます。
たとえば、BBCやフィナンシャル・タイムズ、エコノミストなどの欧米メディアは、指導者が登場すると必ず、生い立ち、思想形成、社会構造との関係を丁寧に描きます。
人物を通して、政治構造を説明するのです。
一方、日本のメディアは、来日や首脳会談を「出来事」としては報じますが、「構造」として語ることがほとんどありません。
人物背景や思想的文脈が省かれるため、メローニ首相のような存在は記事にしにくくなります。
むしろ、どう説明すればよいか分からず、結果として沈黙したと見るほうが現実に近いでしょう。
メローニ首相の来日があまり報じられなかったのは、彼女が危険だからではありません。
日本のメディアが、主権と責任を正面から語る政治を説明する言語と枠組みを失っているからです。


