過日開かれた世界経済フォーラム、いわゆるダボス会議では、ドル安の進行や、地政学的緊張の高まりを背景とする金価格の上昇が話題となりました。
議論の焦点は、「ドルは今なお安全資産なのか」「国際金融秩序への信認は揺らいでいないのか」という点にありました。
こうした問いは、決して新しいものではありません。
国際通貨体制をめぐっては、かねてより「トリフィンのディレンマ」と呼ばれる有名な議論が存在します。
基軸通貨国は、世界に通貨を供給するために経常赤字を続けざるを得ず、その結果として通貨への信認を失うという、一見すると避けがたい矛盾がある、という主張です。
この説明はもっともらしく聞こえますが、本当に現実を正しく捉えているのでしょうか。
本稿では、ダボス会議で改めて浮上した「ドルの信認」という現在の問題を手がかりに、トリフィンのディレンマとは何だったのか、そしてなぜそれが誤解なのかを、構造的に整理してみたいと思います。
トリフィンのディレンマは、1960年代に経済学者ロバート・トリフィンが提示した議論です。
世界経済には基軸通貨が必要であり、その基軸通貨を供給する国は、必然的に経常赤字を引き受けることになる。
しかし、経常赤字が累積すれば、通貨への信認が損なわれ、基軸通貨体制は不安定化する。
これが、一般に理解されてきたトリフィンのディレンマの骨子です。
もっとも、この議論には重要な前提があります。
それは、国際通貨の供給は、経常赤字を通じてしか行えない、という暗黙の仮定です。
しかし、この前提そのものが現実と合致していないと指摘せざるを得ません。
現代の国際金融において、基軸通貨は必ずしも貿易赤字によって供給されているわけではありません。
銀行による信用創造、国際金融取引、さらにはオフショア市場を通じて、基軸通貨は供給されています。
通貨の供給と経常収支は、理論的にも実証的にも、必ずしも一対一で結びついていないのです。
この点は、歴史を振り返ると、より明確になります。
19世紀のイギリスも、覇権国としてポンドを世界に供給していましたが、そのために経常赤字を続けていたわけではありません。
むしろ、海外投資の拡大によって資本収支を赤字化させることで、世界にポンドを供給していたのです。
当時のイギリスは、工業製品の輸出に加え、海運・保険・金融といったサービス収支、さらには海外投資からの利子や配当によって、経常収支は概ね健全に保たれていました。
一方で、鉄道や港湾、鉱山といったインフラ整備を中心に、世界各地へポンド建ての資本を供給していました。
ポンドは、貿易赤字ではなく、資本取引を通じて世界に流通していたのです。
この歴史的事実は、「基軸通貨国は経常赤字にならざるを得ない」というトリフィンのディレンマの前提が、必ずしも成り立たないことを示しています。
国際通貨の供給は、経常収支ではなく、金融システムと資本取引によって行われ得るのです。
現代のドル体制も、同様の構造を持っています。
アメリカは長年、経常赤字を続けていますが、それにもかかわらず、ドルは国際決済の中心であり、外貨準備の基軸であり、危機時には安全資産として買われ続けています。
もしトリフィンのディレンマが必然的な法則であるなら、ドルはすでに信認を失っていなければ説明がつかないはずです。
ここで重要なのは、国際通貨体制には明確な階層構造が存在するという点です。
最上位に位置する基軸通貨は、深く流動性のある金融市場と、信用創造を可能にする銀行システムによって支えられています。
ドルは、アメリカ国内の金融システムだけでなく、ユーロダラー市場を含む国際金融ネットワークを通じて供給されており、その供給量は経常収支とは独立して拡大してきました。
このように考えると、トリフィンのディレンマとは、通貨体制の不安定性を説明する理論というよりも、「経常赤字=悪」という単純化された物語に依拠した議論であったと言えます。
基軸通貨体制が不安定化するとすれば、その原因は経常赤字そのものではなく、金融規制の失敗や信用創造の暴走、あるいは政治による政策判断の誤りに求めるべきでしょう。
ダボス会議で語られたドル安や安全資産としての信認の問題も、同様に捉える必要があります。
それは、トリフィンのディレンマが示す「避けられない矛盾」の表れではなく、制度と政策のあり方が問われているという問題です。
通貨体制の不安定化を、宿命的なディレンマとして語ってしまえば、責任の所在は曖昧になります。
通貨とは何か、信用とは何か、国家は何を引き受けているのか。
これらを正面から言語化することこそが、国際金融秩序をめぐる議論において、いま政治が引き受けるべき責任なのだと思います。


