いよいよ本日から衆院選が始まります。(2月8日投開票)
この選挙で一つの大きなポイントになるのは、高市内閣が国民の信認を得られるかどうかです。
もし、高市内閣が信認されることになれば、それは単に政権が続く、という意味にとどまりません。
それは同時に、日本の財政運営が、長年続いてきた「緊縮財政路線」から「積極財政路線」へと転換することを、国民が支持した、という政治的意味を持つことになります。
そこで、有権者一人ひとりが、判断を下す前提として、あらかじめ心得ておくべきことがあります。
まず第一に、いわゆる「財政破綻論」は、単なる一つの意見ではありません。
これは長い時間をかけて、官僚組織や一部の人々の中に、「正義の物語」として内面化されてきたものです。
「これ以外に正しい答えはない」
「異論は無責任だ」
そうした形で、あたかも唯一の正解として語られてきました。
第二に、この種の物語は、ある特徴を持っています。
それは、「誰かが悪い」「国民の中の特定の集団が、身を削って負担すべきだ」という考え方と、極めて相性が良いという点です。
財政が苦しいのは誰のせいなのか。
将来世代にツケを回しているのは誰なのか。
こうした問いが、いつの間にか特定の人々を指さす形で語られ始めます。
ここで動員されるのが、いわゆるルサンチマンです。
第三に、ルサンチマンを利用した政治や統治には、共通する危うさがあります。
最初は、「自分ではない誰か」が攻撃の対象になります。
自分とは違う立場の人、少数派、声の小さい人たちです。
しかし、歴史が示しているのは、ここで止まることは決してない、ということです。
一度この仕組みが動き出すと、攻撃の矛先は必ず拡大し、転移します。
昨日まで傍観していた人が、明日には当事者になる。
それがルサンチマン政治の本質です。
第四に、この構造を象徴的に示しているのが、ニーメラー牧師の証言です。
ナチス政権下のドイツで、彼はこうした事態を目の当たりにしました。
「最初に共産主義者が攻撃されたとき、私は声をあげなかった。自分は共産主義者ではなかったからだ。次に社会民主主義者が捕らえられたときも、私は声をあげなかった。自分とは関係ないと思ったからだ。そして、ついに教会が攻撃されたとき、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」
この言葉が示しているのは、誰かを切り捨てることで秩序を保とうとする社会が、最終的にどこへ行き着くのか、という現実です。
繰り返します。
今回の衆院選は、単なる政権選択ではありません。
「財政破綻論」という正義の物語を、このまま続けるのか。
それとも、分断とルサンチマンの政治から距離を取り、現実に即した積極財政へと舵を切るのか。
有権者一人ひとりがどちらを選ぶのかが、いま静かに、しかし確かに問われています。


