大晦日になると、全国各地で実にさまざまな活動が行われます。
神社や寺院での年越し行事、町内会の夜回り、除夜の鐘、消防団の警戒活動、地域の集会所での年越しそばの振る舞い。
近年では、ホームレス支援や生活困窮者向けの炊き出し、外国人住民を交えた年越しイベントなど、現代的な取り組みも各地で見られます。
これらの光景を見ていると、あらためて気づかされます。
私たちは決して「孤立した個人」として年を越しているわけではない、ということです。
一年の終わりという節目に、人は自然と集まり、声を掛け合い、互いの無事を確かめ合います。
そこには契約も市場もありません。
対価を求めるわけでもなく、効率を競うわけでもありません。
ただ、「同じ時間と場所を生きている存在」として人が結び直されているのです。
この感覚は、私たちの生活の中に深く根づいています。
ふだんは個人として働き、消費し、競争する社会に身を置きながらも、節目のときには共同体に立ち返る。
大晦日の営みは、人間が本質的に「関係の中で生きる存在」であることを、静かに思い出させてくれます。
経済学や政治思想の世界では、しばしば人間は合理的で自立した「個人」として描かれます。
しかし現実の人間は、そのような抽象的な存在ではありません。
家族があり、地域があり、歴史と風土の中に埋め込まれた存在です。
英語で言えば、エンベデッド(embedded)な存在だと言えるでしょう。
この「人間は共同体の中に埋め込まれて生きている」という事実を、学問的に徹底して掘り下げた思想家が、カール・ポランニーでした。
ポランニーは、人類社会の歴史を振り返りながら、労働や土地や貨幣が、もともと市場で売買されるものではなかったことを明らかにしました。
人は共同体の一員として働き、土地は自然と結びつき、貨幣は生活を円滑にするための仕組みにすぎなかったのです。
ところが近代に入り、社会が市場原理によって再編される中で、人は労働力として切り離され、土地は商品となり、貨幣は投機の対象となりました。
その結果、人間は共同体から切断され、孤立した個人として市場に放り込まれることになります。
ポランニーが警告したのは、まさにこの点でした。
人間を共同体から引き剥がし、市場の論理だけで生きさせようとすれば、社会は必ず不安定になります。人は孤立に耐えられず、やがて再び結びつきを求めるからです。
大晦日に人々が自然と集まり、互いを気遣い、地域の中で年を越そうとする姿は、こうした人間の本質を如実に物語っています。
市場の論理では説明できない行動であり、それでも確かに社会を支えている営みです。
効率や競争、成長だけでは測れない価値が、この社会には存在します。
それは、人と人との関係性であり、共同体という目に見えにくい基盤です。
一年の終わりに立ち止まり、こうした光景を見つめ直すことは、私たちがどのような社会を守り、どのような未来を選ぶのかを考えるうえで、決して小さな意味を持たないように思います。
今年も私のブログをご愛顧くださいました皆様に、心より感謝申し上げます。
どうぞ、よいお年をお迎えください。


