入院患者のスムーズな転院を図るため、病院間で空き病床の情報を共有する取り組みが、東京・八王子市で始まったと報じられていました。
市内28の病院が参加し、病床の空き状況を専用サイトで確認できる仕組みを、今月から試験的に運用しているとのことです。
急性期を終えた患者が次の受け入れ先を見つけられず、現場が滞留する事態を少しでも減らそうという、現実的で切実な試みだと思います。
同時に、国もまた、病床を個々の病院の内部事情に委ねるのではなく、医療提供体制全体の課題として捉えていることが明確になっています。
厚生労働省は、令和7年度の「医療施設等経営強化緊急支援事業」の一環として、病床数の適正化を進める医療機関に対し、病床削減に伴う雇用や経営上の負担を公費で支援する方針を、事務連絡により都道府県に示しています。
この二つの動きは、いずれも同じ事実を浮かび上がらせています。
すなわち、病床は個々の病院の内側だけで完結する存在ではなく、地域全体で共有され、調整され、最適化されるべき医療資源だということです。
にもかかわらず、「病床は公共財ではない。病院が私的資金で整備している以上、病床は病院経営者の私有財だ」という主張を、いまなお耳にすることがあります。
しかし、私的な費用を投じたかどうかと、その対象が公共的資源であるかどうかは、まったく別の問題です。
たとえば選挙には多額の私費がかかりますが、だからといって当選後の議席が私有財になるわけではありません。
議席は、憲法秩序と公職選挙法のもとに置かれた公的地位であり、自由に処分できる財産ではないからです。
私的コストの投入は、その対象の公共性を否定する根拠にはなりません。
同じことは病床にも当てはまります。
日本の医療制度において、病床は単なる設備ではありません。
病床数は医療法に基づき都道府県知事の許可事項とされ、増床や転換、廃止は地域医療構想や病床機能報告制度の枠内で管理されています。
診療報酬は公定価格であり、自由価格ではありません。
感染症対応、災害医療、救急医療といった公共目的が、病床の役割として制度的に組み込まれています。
さらに国は、病床削減という経営判断に対してさえ、公費による支援制度を設けています。
これらを総合すれば、病床が所有者の自由処分に委ねられた私有財ではないことは明らかです。
病床の法的な所有権が医療法人等に帰属していることと、その病床が公共的医療資源として扱われていることは、矛盾しません。
現行制度は、法的な所有は民間に置きつつも、機能や配置、役割については公的に管理するという構造をとっています。
八王子市の病床情報共有の試みも、厚生労働省の病床数適正化支援事業も、その前提に立った施策です。
すでに制度も現場も、病床を準公共インフラとして扱っているのです。
なお、ここで一点、誤解のないように付け加えておきたいのは、私自身は、この病床削減支援事業の政策的方向性には賛成していないという点です。
病床数の「適正化」という名のもとで進められている今回の施策は、地域医療の質や供給力の観点からというよりも、国の財政運営、とりわけ財務省主導の歳出抑制・緊縮財政の要請が強く反映されたものだと考えています。
実際、財政制度等審議会が令和6年11月に取りまとめた「令和7年度予算の編成等に関する建議」においては、医療・社会保障分野について、給付の抑制や歳出構造の平時化、プライマリーバランス黒字化目標の達成を強く意識した議論が前提として置かれています。
病床削減を促す各種施策も、こうした財政フレームの延長線上に位置づけられており、医療需要の将来見通しや地域医療の実情よりも、まず「歳出をどう抑えるか」という発想が先行していることは否定できません。
私が問題視しているのは、公共性を理由に供給力を削りながら、結果として地域医療を弱体化させかねない政策判断が行われている点です。
改めて、本題に立ち返ると⋯
おそらくは「病床は公共財ではない」という言葉が出てくる背景には、公共性そのものへの否定というよりも、公共性に見合う制度的・財政的裏付けが十分でないという現実があります。
公共的役割を強く求められる一方で、経営リスクは民間が全面的に負い続けてきました。
この構造に対する不満や違和感は理解できます。
だからといって、その不満は、病床の公共性を否定する理由にはなりません。
むしろ本来問われるべきなのは、病床を地域医療の中核インフラとして扱う以上、その制約に見合う責任を国や自治体がどこまで引き受けるのか、という点です。
病床の公共性を否定することは、こうした本質的な課題から目をそらし、議論を矮小化してしまいます。
病床は、誰かの立場や利害によって公共性が決まるものではありません。
すでに制度によって、明確に公共的医療資源として位置づけられています。
だからこそ、病床の公共性を否定するのではなく、その公共性にふさわしい責任分担と支援のあり方をこそ、正面から議論すべきだと考えます。


