「存立危機事態になりうる」発言――集団的自衛権に閉じた議論の限界

「存立危機事態になりうる」発言――集団的自衛権に閉じた議論の限界

岡田克也衆議院議員は、自身の公式ブログにおいて、高市首相が衆議院予算委員会で「台湾有事は存立危機事態になりうる」と答弁したことを、「簡単に戦争を始めると言うな」と強く批判しています。

しかし、この批判は、安保法制の射程、集団的自衛権の限界、そして日本が国際秩序の中で果たすべき責務という三つの重要な論点を、十分に踏まえたものとは言い難い。

まず確認すべきは、安保法制が何を定め、何を定めていないのかという点です。

安保法制は、集団的自衛権を無制限に行使できるようにした制度ではありません。

むしろ、行使できる場合とできない場合を極めて限定的に整理し、その一類型として「存立危機事態」を位置づけたものです。

高市首相が言及したのは、その既存の制度枠組みの中で、「なりうる」という法的可能性に触れただけであり、武力行使を決断したわけでも、戦争開始を宣言したわけでもありません。

にもかかわらず、岡田氏は「存立危機事態と認定するということは、日本が武力行使する、即ち戦争を始めるということだ」と断じています。

しかし、これは制度理解として正確ではありません。

存立危機事態の認定は、武力行使の入口にすぎず、その後には必要最小限性の検討、具体的態様の判断、国会承認など、複数の段階が存在します。

認定可能性への言及と、戦争開始を同一視するのは、法制度の構造を著しく単純化しています。

さらに重大なのは、岡田氏の議論が、集団的自衛権という「権利」の是非に終始し、集団安全保障という「責務」の視点を欠いている点です。

我が国は、何の留保事項も付けずに国連に加盟している主権国家です。

国連は集団安全保障の枠組みであり、その加盟国である以上、日本は国際秩序の維持に一定の責務を負っています。

この点において、集団的自衛権は本来、集団安全保障を補完するための限定的な権利にすぎません。

米国が日本に期待しているのも、集団的自衛権という「権利の行使」ではありません。

台湾有事であれ、朝鮮半島有事であれ、米国が日本に求めているのは、日本がこの地域の安全保障において、どこまで現実的な役割と負担を引き受けられるのか、すなわち集団安全保障の集団的措置を担う責務を果たせるのか、という点です。

そもそも、台湾海峡が封鎖され、日本のシーレーンが遮断され、在日米軍基地が作戦拠点として使用され、日本列島そのものが戦域に含まれるような事態が発生した場合、それは日本の存立と無関係だと言えるでしょうか。

そのような事態が、存立危機事態に「該当しうる」と考えること自体を封じる方が、むしろ現実から目を背けた非現実的な態度だと言わざるを得ません。

抑止とは、事態が起きてから議論するための概念ではありません。

起こさせないために、相手にどう認識させるかという問題です。

政府が「すべて個別具体的に判断する」とだけ繰り返し、どのような事実の組み合わせが判断対象になりうるのかを一切示さなければ、その曖昧さは相手に試される余地を与えます。

慎重であることと、何も語らないことは同義ではありません。

曖昧さを残しつつも、判断の輪郭を示すことこそが、抑止を成立させるために必要なのです。

岡田氏のブログは、「簡単に戦争を始めるな」という情緒的な警句にとどまり、日本が国際秩序の中でどのような責務を負い、どのような現実的役割を果たすべきなのかという問いに答えていません。

いま問われているのは、首相の一言の是非でも、個人の資質論でもありません。

集団的自衛権という権利の限界を見据えた上で、日本が集団安全保障の一員として、どこまで責務を引き受ける覚悟があるのか、その覚悟を制度と準備に落とし込めているのか、この一点です。

その核心から目を背けたままの批判では、現在の戦略環境に向き合っているとは言えないと考えます。