私は最近、無所属議員の仲間たちとともに、地方自治法第99条に基づく意見書案を、各定例会において議会へ提案しています。
地方自治法第99条は、地方議会が国に対して意見書を提出することを明確に認めています。
これは、地方が国の政策を単に追認する存在ではなく、現場からの視点で異議や提案を行う主体であることを前提とした制度であると、私は理解しています。
ゆえに私は、地方議会においても国の政策に対して積極的に意見を述べるべきだと考えており、国民生活に直結する政策テーマについて、その背後にある構造を可視化するための問題提起として、あえてこうした提案を行っています。
したがって、可決されるか否決されるかという結果そのものは、私にとって本質的な問題ではありません。
一昨日(令和7年12月16日)も私は「プライマリーバランス黒字化目標の破棄を求める意見書案」を提案しました。
例によって、すべての既存政党の反対多数により否決されました。
自民党、公明党、みらい(立憲民主党・国民民主党)、日本維新の会、共産党など、与党・野党を問わず、既存のすべての会派が反対に回り、反対討論は一切行われませんでした。
プライマリーバランス黒字化目標については、政府内でも見直しを求める議論が公然と行われており、経済財政諮問会議では、前日本銀行副総裁の若田部昌澄氏が、デフレ期の歴史的産物であり、すでに使命を終えたと明言しています。
つまり、国の中枢においてすら是非が議論されているテーマです。
それにもかかわらず、川崎市議会では一切の討論もなく、数だけで否決されました。
無所属議員が主導して国の財政運営に意見するという構図そのものが、既存の会派政治にとっては受け入れがたいものだったのだと拝察します。
ここで浮かび上がるのは、何が提案されたかではなく、誰が提案したかが判断基準になっているという現実です。
川崎市議会には、明文化されてはいないものの、強力に機能している不文律があります。
それは、無所属が主導する案件には、基本的に賛成しないという暗黙のルールです。
なお、会派によっては、過去の案件において是々非々の立場で対応してきた例もあります。
ある与党政党の会派においては、賛成せざるを得ない無所属議員の意見書案について、共同提案という形を取ることで、結果として無所属主導の提案とならないよう対応する例も見られました。
会派は本来、政策を議論するための集団であるはずですが、現実には、人事調整や情報共有、執行部との関係維持を担う組織としての側面が強くなっています。
無所属議員が主導して成果を上げることは、会派の存在意義そのものを揺るがしかねません。
その結果、内容に一理があったとしても、賛成すると前例になる、他の会派との足並みが乱れるといった理由から、最初から結論が決まってしまう。
特に問題なのは、反対するにしても議会のルールとして認められている反対討論が一切行われないことです。
例えば、プライマリーバランスや財政運営の議論は、経済理論や政府試算、国民経済計算体系、いわゆるSNAといった一定の専門性を要します。
中身に踏み込めば、簡単には否定できない論点が並びます。
だからこそ、反対理由を言語化せず、議論せずに否決するという、最も形式的で、最も形骸化した対応が選ばれたのだと思います。
反対派の沈黙そのものが、議論できなかったことの証左でもあります。
その否決のされ方自体が、地方議会の形骸化を雄弁に物語っています。
議論が行われない議会、中身よりも立場が優先される議会、そして、国の政策に対して主体的な意思表示ができない議会。
これらの現状は、政党政治が抱える構造的な硬直化の一側面を示しているのではないでしょうか。
こうした市議会における会派主義の硬直は、地方議会固有の問題にとどまるものではありません。
その背景には、政党助成金制度によって国政政党に安定的な資金と組織力が与えられ、過去の選挙結果に基づく資源配分が、現在の支持や政策の妥当性とは切り離されたまま再生産されているという構造があります。
政党助成金は、本来、政治の透明性を高め、健全な政党政治を支えるために導入された制度です。
しかし現実には、既存政党の活動基盤を固定化し、地方議会においても会派主義を通じて、無所属議員や少数意見による問題提起を制度的に不利な立場へと追い込む要因の一つとなっています。
市議会で見られる「中身より立場が優先される意思決定」や「討論なき否決」は、個々の議員の姿勢の問題というよりも、政党助成金制度を中核とした政党政治の自己保存構造が、地方レベルにまで及んでいる結果だと考えます。
地方議会が、地方自治法第99条の趣旨どおり、現場から国に対して主体的に意見を述べる場として機能するためには、会派主義の在り方だけでなく、政党助成金制度が地方政治に及ぼしている影響についても、冷静に検証される必要があります。
今回の否決も、意見書案の是非を超えて、こうした構造的課題を浮き彫りにした出来事であり、私はその点にこそ、問題提起の意味があったと考えています。


