来年度から、小学校給食の無償化を巡り、国で制度設計が進められています。
自民・公明・日本維新の会の三党は、自治体への新たな交付金を創設し、食材費相当額を国が全額保障する方針で合意案をまとめました。
公立小学校を対象に、保護者の所得にかかわらず一律に支援する内容で、必要な財源は地方財政計画の歳出に全額計上し、一般財源総額を増額して対応するとされています。
川崎市議会にも、学校給食の無償化を求める請願・陳情が頻繁に提出されています。
その多くは、「生活が苦しい」「家計負担が重い」という切実な声に基づくものです。
こうした声を否定するつもりはありませんし、生活困窮への支援は当然に必要です。
しかし私は、あえて別の角度からこの問題を考えたいと思います。
それは、学校給食はサービスなのか、それとも教育なのか、という問いです。
もし学校給食を「子ども向けサービス」「生活支援策」と捉えるならば、それは福祉政策の一部です。
その場合、無償化の根拠は「生活が苦しいから」という理由になります。
しかしこの立て付けでは、給食はあくまで消費であり、財政上はコストとして扱われ続けます。
その結果、財政が厳しくなれば、真っ先に削減や効率化の対象になります。
一方で、学校給食を義務教育の一環としての教育活動と捉えるなら、話は根本から変わります。
給食は単なる栄養補給ではありません。
食事のマナーを学び、食材の背景を知り、命をいただく意味を考える。
そして、皆で同じものを食べる経験を通じて、社会性を身につける。
これは、教科書だけでは身につかない極めて重要な教育です。
食育という言葉が示すとおり、給食は人格形成に深く関わる教育活動です。
義務教育である以上、教育は無償で提供されるのが原則です。
教科書が無償であるのと同じです。
ゆえに、学校給食が教育であるならば、無償化は当然の帰結です。
さらに言えば、教育は消費ではなく投資です。
子どもへの教育投資は、将来の生産力、社会の安定、国全体の持続可能性へとつながります。
投資であるならば、財源を国債、すなわち将来世代と共有する形で賄うことは、経済的にも合理的です。
教育を「借金でやってはいけない」とする考え方こそ、将来世代に対して無責任ではないでしょうか。
ここで、学校給食の歴史にも目を向けておく必要があります。
日本の学校給食制度は、戦後、米国の「スクールランチ政策」を原型として導入されました。
パンと牛乳中心の献立が定着した背景には、栄養改善だけでなく、米国の余剰小麦や乳製品を処理するという国際政治・通商上の事情がありました。
MSA協定のもとで、米国産農産物が日本に大量に流入し、その安定的な消費先として学校給食が位置づけられた歴史があります。
これは過去の経緯として直視すべき事実です。
そして今こそ問われているのは、いつまでその構造を引きずるのか、という点です。
学校給食を教育と位置づけるならば、国産食材を中心とした献立、米飯を基本とする食文化、地域農業と結びついた給食体制へと転換していくことは、極めて自然な方向性です。
それは教育であり、食料安全保障であり、地域経済への投資でもあります。
「生活が苦しいから無償にしてほしい」という福祉的発想から、「教育だから無償であるべきだ」という原則的発想へ。
学校給食をどう位置づけるかは、単なる給食費の問題ではありません。
それは、私たちが子どもをどう育て、どのような社会を次世代に引き継ぐのかという、根本的な思想の問題です。
私は、学校給食は教育である、だから無償化は当然である、という立場から、今後もこの問題に取り組んでいきたいと考えています。


