令和7年12月9日の衆議院予算委員会で、立憲民主党の本庄知史議員が「歳入の6割超を国債の追加発行で賄う。責任ある積極財政と言えるのか?」と質問し、高市首相は「当初予算と補正を合わせても国債発行額は前年度を下回っており、財政の持続可能性にも配慮している」と答弁されました。
国会ではこの手のやりとりが繰り返されていますが、今回せっかく緊縮破綻論(国債は将来世代の借金であり返済には増税が必要になるという考え方)に基づく質問が投げられたのです。
であれば、責任ある積極財政を掲げる首相として、この種の質問は「貨幣観」を問い直す絶好の機会であると捉えるべきではないでしょうか。
本庄議員の質問の前提は、ある意味で明快です。
「税=財源」「国債=借金」という家計簿的な財政観です。
それに対し高市首相の答弁は「国債は絞っています」と応じたことで、その前提に乗ってしまったように思います。できればここで、大きく踏み込んで論戦の土台そのものを揺さぶってほしかった。
なぜなら、わが国政府は自国通貨(円)建てで国債を発行しており、償還資金は税ではなく借換債や日銀のバランスシート処理で賄われているからです。
つまり「国債は将来世代に負担を残す借金だ」という認識そのものが現実と一致していません。
国債発行とは、むしろ国民経済に円を供給し、民間の黒字を裏付け、投資と生産能力を支える装置にほかなりません。
であるならば、こうした緊縮フレームの質問を受けたときほど、首相には踏み込んだ反論を期待したいところです。
たとえば、
・「国債残高はこの35年で約7倍に増えたが、なぜ破綻しないのか」
・「政府赤字とは民間黒字の源泉ではないのか」
・「国債とは通貨供給である」
──こうした視点を国会で提示できれば、日本の財政議論は一歩前に進みます。
貨幣の仕組みが国民と共有されなければ、いつまでも「国債は借金」「緊縮こそ正義」という呪縛から脱することはできません。
むしろ緊縮派の指摘に真っ向から応じ、論点を貨幣観へ引きずり出すことこそ政治の役割であり、最大の啓蒙です。
もちろん、首相は政権の安定運営や官僚組織との調整を考慮せざるを得ません。
大胆な答弁はリスクを伴い、報道の切り取りもあるでしょう。
しかしだからこそ、国会の場で貨幣観が転換されたときの衝撃は大きい。
国民の常識が揺らぎ、政治の優先順位が変わります。
「国債を減らすか増やすか」ではなく、「何に投資すべきか」という成長戦略の議論へと移行します。
将来世代が本当に背負うのは国債ではなく、投資を怠った結果の衰退です。
だからこそ、緊縮派の質問は反撃のチャンスです。
あえて受け止め、論戦を貨幣論争に引き上げ、国民の認識を変える機会にすべきだと私は思います。
国民の思考を動かすのは、政治家の言葉です。
ちなみに、もし私が首相であったなら、本庄議員の質問にはこう答えたでしょう。
「国債は将来世代の負担というより、国民経済に必要な円を供給する機能です。そもそも通貨を発行できる政府が、なぜ国民の懐から紙幣を回収しなければならないのでしょうか。政府の赤字は民間の黒字であり、国債発行はその裏付けです。歳入の6割が国債であることを問題視するのではなく、むしろ国債によって景気と供給力を支えてこなかったことこそ問われるべきです。」
国債は借金ではなく、国民経済を支える通貨供給装置である。
この一点が共有されるだけで、財政論争の地平はまったく別のものになります。


