地方の衰退がもたらした火災――なぜ佐賀関は燃え広がったのか

地方の衰退がもたらした火災――なぜ佐賀関は燃え広がったのか

大分市佐賀関で先月18日に発生した大規模火災は、187棟、約48,900㎡に及ぶ甚大な被害となりました。

死者は1名という人的被害が最小限にとどまったことは「奇跡的」と評されています。

しかし私は、この火災を単なる災害として受け止めるべきではないと考えます。

今回燃えたのは家屋そのものではなく、私たちがこの30年間かけて形成してきた「社会構造」であり、その脆弱さが炎によって露わになった出来事だったからです。

佐賀関は戦前から続く集落で、空き家率が高く、高齢化が著しく進展しています。

木造住宅が密集し、生活道路は狭く、消防車が入りにくい地形であったうえ、火災発生時には強風まで吹いていました。

消防車21台、消防隊員88人、市消防団144人が出動し、自衛隊ヘリや防災ヘリも投入されましたが鎮火までに10日を要し、火は1.5キロ離れた無人島の蔦島にも飛び火し、最終的な鎮火確認は12月4日のことです。

この経緯そのものが、消火の困難さ以上に「火災を止められないまち」になっていたことを象徴しています。

本来問うべきは、なぜ火が広がったのかではなく、なぜ火を止められる都市構造ではなかったのかという点ではないでしょうか。

背景には、木造密集、老朽家屋、空き家放置、消防インフラの制約、そして何より地域コミュニティの担い手不足という複数の要素がありました。

しかもそれらは偶然ではないのです。

日本は1990年代中盤以降、新自由主義(グローバリズム)政策を基調とし、公共投資の削減と財政緊縮を続け、地方のインフラ更新や都市更新を後景に追いやってきました。

雇用と成長機会は東京に集中し、若者は仕事を求めて都市部へ流出し、残された地域は人口が減り、高齢化が進み、空き家が増え、住宅の更新も遅れ、災害耐性は徐々に失われていきました。

地方衰退とは、気づかぬうちに進む構造的現象であり、佐賀関の火災はその帰結が顕在化した瞬間だったと言えます。

今回の火災で命が多く救われたことは尊く、胸を撫でおろす結果ではありますが、それは構造的危険を克服した成果ではなく、むしろ「奇跡的な幸運が重なった」と言うべき側面すらあるのではないでしょうか。

現状のままでは、次回も同じように守られるとは限りません。

火災を防ぐことだけでなく、火が広がらないまちを設計し直す思想と制度が求められています。

空き家対策を防災政策として再定義し、不燃化改修や地区再整備に財政出動を伴わせ、住民力に依存した防災から制度的防御力へと発想を転換しなければなりません。

防災は意識の問題ではなく、構造の問題です。

そして、この火災は私たちに問いかけています。

災害とは本当に自然現象か、あるいは衰退構造が炎の形で顕在化したものではないのか。

地方衰退と緊縮の果てに残った街が燃えたのだとするならば、今必要なのは火災対応よりも、そもそもの構造を作り替える政治的意思ではないでしょうか。

火を消すことよりも、火が広がらない国土を再構築することが、これからの日本の課題であり責務だと私は考えます。

この火災を転機として、政策思想の立て直しが求められています。