リベラルは保守が守る秩序基盤の上でしか成立しない

リベラルは保守が守る秩序基盤の上でしか成立しない

自由、権利、多様性──。

どれも耳に心地よく、現代社会では「正しい価値」として疑われることさえありません。

しかし、自由が花のように咲き誇るためには水や土壌が欠かせないように、自由や多様性もまた、ある前提の上にはじめて成立するものです。

その前提とは、秩序であり、社会統合です。

つまり、互いに意見が異なっていても「我々は同じ共同体の一員だ」という認識が共有されている状態です。

この秩序を守る役割を担うのが「保守」であり、自由を拡張しようとするのが「リベラル」です。

本来、この二つは敵対する思想ではなく、役割分担として共存するものです。

ところが近年、リベラリズムはその前提となる秩序の基盤を「古い」「差別」「抑圧」と決めつけ、否定し始めました。

まさに、リベラルが自らの存在条件である土台を掘り崩すという逆説が進行しているのです。

私は先日、川崎市内の小学校を視察しました。

本市は「子どもの権利条例」というリベラルな理念条例を、全国に先駆けて導入しています。

理念は美しい。

子どもを尊重し、人格を認め、権利を守る──表向き、これに反対する人はほとんどいません。

誰も表向きには反対しづらい。

しかしながら現場では、理念が制度運用を縛り、秩序回復の行為さえ躊躇される風潮が醸成されていました。

授業中、子どもたちの私語は途切れず、立ち歩きや奇声も散見されます。

教師は三名体制で20名ほどを見ているにもかかわらず、注意よりも「なだめてあやす」対応に終始していました。

叱ることが「権利侵害」と受け止められるのではないかという空気が、教育を萎縮させているのです。

これを放置すれば、勉強できる子はどこでも学ぶでしょうが、秩序が整わなければ学べない子は取り残されます。

その差はやがて、中学・高校・大学・所得へと連続し、教育格差→経済格差→階層固定化へとつながる。

つまり、リベラルが掲げた「平等」は、むしろ逆方向に向かうのです。

これは理念が悪いのではなく、秩序を伴わない理念が社会を破壊する構造の問題です。

同様の現象は他にも見られます。

LGBTQ法案成立後、男女共通トイレの導入を進めようとしましたが、性被害への不安から女性の利用が進まず、自治体によっては導入が停滞しています。

理想は「誰もが安心して利用できるトイレ」なのに、秩序や安全設計を置き去りにした理念先行の制度は、結果として誰も救えない制度となる危険があるのです。

多文化共生政策も例外ではありません。

川口市では外国人、とくにクルド人問題が深刻化し、治安の悪化が報じられるケースも増えました。

移民そのものが問題なのではなく、ルールと秩序を伴う受入れ設計がなければ、多様性は単なる衝突へ向かうという構造が見えてきます。

自由は良い。

権利も良い。

多様性も尊い。

しかし、それらは決して自立した理念ではなく、共同体という土壌・秩序という根の上ではじめて実る果実にすぎません。

自由は秩序の果実であり、土台が崩れれば花も実も消えます。

自由を守るために、秩序という土台をどう維持するのか。

理念は語られても、土台となる秩序についての議論はほとんど行われていません。

その沈黙こそ、最も深刻な問題なのだと思います。