私たちはいま、「リベラリズム」という耳当たりの良い理念のもとで、国家を支える大切なものを失いかけています。
リベラリズムは、個人の自由だけを過度に強調し、あたかも理性と制度設計だけで社会は成り立つかのように錯覚させてしまう思想です。
リベラリズムやネオリベラリズムに共通するのは、人間を社会的文脈から切り離された孤立した個人として捉える点です。
この思想には深刻な欠陥があり、そこにこそ現代社会を不安定化させる根本的な病があります。
どれほど制度を整えても、それを支える国家という国民共同体がなければ――すなわち「単なる個人の集合体」では、紙幣を発行することも、徴税を行うこともできません。
国家を支えるのは、国民が一つの運命共同体であるという連帯の感覚です。
国力の源泉はこの「国民の連帯」にこそあると言ってよい。
国民の連帯を守り、国家の継続性を保とうとする態度が、保守主義の精神です。
過去の遺産を尊重し、社会の連続性を守りながら前進するという漸進主義に基づき、人間の理性がすべてを設計できるという思い上がりではなく、歴史や文化に根ざした文脈を大切にする現実主義、これこそが保守主義です。
この文脈性こそ、国家を国家たらしめる根本原理、すなわち「国体」です。
そして憲法とは、その国体を言語化し、制度として文脈化したものです。
ゆえに憲法とは、単なる法技術ではなく、国家の統一性と正統性を支える根幹です。
その正統性が揺らげば国家そのものが浸食されます。
現行憲法(占領憲法)は、我が国の国体を無視して制定されたものです。
戦後80年にもわたり、国体を反映せぬ憲法を戴いている以上、国家の秩序と統一性、国民の連帯性などが保たれるはずもありません。
むしろ占領憲法は、リベラリズムを強く反映した憲法です。
そのために、日本の憲法秩序は国民をバラバラな個人へと解体し、国家の統合原理を引き裂いてきました。
このままでは、通貨の信用も、財政の持続性も、防衛力も、社会秩序も、すべてが崩れ落ちていくでしょう。
何度でも言います。
国家を強くするのは制度でも市場でもなく、国民が一つに結ばれているという意識であり、国力は国民の連帯にあります。
自由な個人がより良く生きるためにも、その自由を支える祖国という家を守らねばなりません。
たとえば、現在の川崎市の行政運営にも、リベラリズム的な発想が色濃く見られます。
市民を「サービスの消費者」とみなし、共同体としての一体性を深めるという視点が欠けつつあります。
この方向性が行き過ぎれば、地域社会の連帯は細り、市民生活の根本が揺らぎかねません。
そうした国体と秩序を守る器こそが憲法です。
リベラリズムが切り裂いた国家統合の原理を回復し、日本という共同体を再び強く結び直すためにも、私たちは国家の最高規範である憲法の正統性を取り戻さねばなりません。
リベラリズムから国体主義へ。
憲法の正統性を取り戻すことなくして、日本の再生はない。


