行政の巧言を見抜け――川崎教育政策の危険な思想

行政の巧言を見抜け――川崎教育政策の危険な思想

川崎市教育委員会は、現在「第3次川崎市教育振興基本計画(かわさき教育プラン)」素案を提示しています。

そのキーワードとして、例によって「学びの主体」「探究」「多様性」「自分事としての学び」などの概念が強調されています。

一見すれば先進的で、美しく聞こえる理念ですね。

まことに耳障りのよい巧言です。

しかし、この計画には重大な思想的欠陥が存在しています。

それは、人間の理性を万能視し、歴史と共同体の文脈を軽視する「理性至上主義」という思想の病です。

教育を、計画と制度設計のみで操作できるかのように錯覚する危険な発想と言ってよい。

計画は、「すべての市民が学びの主役である」と繰り返しますが、そもそも子どもは初めから主体ではありません。

家族・学校・地域社会という共同体に支えられて、徐々に主体性を獲得していく存在です。

それにもかかわらず、計画では「児童生徒が主体的に学びを自走していくように、教員はファシリテーター役を担う」ことが強調されています。

つまり教員の役割が、「知の継承者」から「学習を支援するサービス提供者」へと縮減しているのです。

これでは、教育の根本である共同体の文化的継承という営みが失われます。

責任を負うべき“導く大人”の役割を曖昧化し、子どもに過剰な自立を強いることは、「主体性」という言葉の乱用にほかなりません。

また、計画の中心には「かわさき探究2.0」が位置づけられていますが、探究とは基礎的知識が十分に育まれてこそ成立する高次の学びです。

本来、知識・徳性・伝統という基盤なしに「考える力」だけを促しても、空虚な相対主義を生む危険があります。

行政が手段であるはずの探究を目的化してしまえば、「国家とは何か」「郷土とは何か」という根源的な問いが教室から消え、歴史から切断された個人だけが残ることになります。

これでは、社会統合の崩壊を招く可能性すら否定できない。

加えて、計画は「教育DX」を重視し、データによる教育効果の最大化を目指しています。

しかし、教育を評価指標とアルゴリズムで管理しようとする姿勢には、「人間はデータ化されるべき対象である」という前提が潜んでいます。

教師と子どもが向き合う時間は減り、「効率性」と称して最も非効率な営みである人間理解が削られていくことになるでしょう。

デジタルはあくまで手段であるべきなのに、本計画はそれを目的化しています。

共通しているのは、計画立案者が「理念と制度で現実を変えられる」と信じている点です。

だが実際の教育現場は、教師不足、不登校急増、家庭機能の低下、地域共同体の弱体化など、克服困難な構造制約に縛られています。

それらを直視せず、思想の上書きだけで未来を変えようとすることこそ、まさに理性至上主義の病理です。

この路線を続ければ、川崎の教育は以下の未来に至ることになります。

――知識の継承が断たれ、国民統合の語彙が失われる。

――学校が「学習サービス消費の場」と化し、社会的上昇の機会は閉ざされる。

――家庭・地域との相互責任が崩れ、教育格差が固定化する。

そしてその失敗は、教育だけに留まらず国家の失敗へと連鎖していくことになります。

必要なのは、理性の限界を受け入れ、「文脈」に立ち返ることです。

教育は理念や計画で創造されるものではありません。

歴史と伝統に育まれた共同体の中で、生身の大人たちが子どもを導き、支え、時に叱り、愛することで継承されてきました。

これが、変えようのない現実です。

子どもたちに本当に必要なのは、万能なアプリでも壮大なスローガンでもありません。

自分が属する世界を信頼できる場所にする――その責任を果たそうとする大人たちの覚悟です。

この素案が議会に示されたとき、その本質を見抜けた議員がどれほどいたのでしょうか。

過日の文教委員会でも、多くの議員が教育委員会の示した土俵の上で議論を進めていたのが現実です。

否、議論になっていたとは到底言えません。

私たちは、理想を語る前に、まず現実を見つめねばなりません。