自助を強いる社会は、行政の敗北だ

自助を強いる社会は、行政の敗北だ

厚生労働省は現在、介護サービス利用時の自己負担割合について、原則1割負担のところ、所得や預貯金が多い高齢者を対象に2割負担の対象を拡大する方向で議論を進めています。

例によって「高齢化で介護費用が増えており、財源の確保が必要だ」という説明が繰り返されています。

最近では、川崎市をはじめ多くの自治体でも「財源が厳しいから自助・共助を」と住民に負担を求める論調が強まっています。

一見すると合理的なようですが、実は構造的に間違っています。

高齢化に伴い、介護や医療の需要が増えることは、将来が見通せる内需の拡大です。

本来であれば、雇用の増加、地域経済の活性化、税収の増加に結びつくはずの動きです。

ところが、「財政が苦しい」というフィクションを前提に、伸ばすべき社会保障を削ろうとする。

すると、介護の利用控えが起こり、状態悪化(重症化)を招き、かえって社会保障費は増大し、財政は悪化します。

まさに逆噴射です。

政府は「財源」を理由にします。

しかし厚労省の説明でも明らかなように、社会保障給付は保険料と国の公費(=国債発行)で賄われています。

困っている人が増えたのであれば、国債発行で支えればよいだけです。

通貨を発行できる日本政府に、本質的な意味で「おカネが足りない」という事態は起こり得ません。

それなのに「国民にもっと負担を」と求めるのは、財政が厳しい“ことにする”ための政治的な物語です。

しかもその誤った物語は地方にも波及し、川崎市でも「財源が厳しいから自助・共助を」という論調が行政の根幹に入り込んでいます。

そもそも行政の役割は「住民の福祉の増進を図ること」であり(地方自治法第1条の2)、これはすなわち公助の責務を意味します。自助・共助が必要な状態とは、本来の公助が不足している現実の表れにほかなりません。

行政は本来、公助を語り、それを実行すべき存在です。自助・共助を求めなければならない社会であるならば、それは行政が最終責任を果たせていない証拠なのです。

介護負担の引き上げは、政府が「財源不足」という虚構を理由に、国民に負担を押し付けているに過ぎません。

国民の生活を守ることこそが国家の役割であり、財政規律の達成は目的ではありません。

高齢者が安心して必要な介護を受けられる社会は、日本がこれから豊かになっていくための条件そのものであり、決して負担ではありません。

高齢化は危機ではなく、未来です。

未来を自ら切り縮める政策を、私たちは受け入れてはなりません。

財政の虚構に基づく負担増の議論を放置せず、地方からこそ声を上げ、現実(構造制約)に整合する政策へと転換を迫らなければなりません。