日本経済新聞が「緩む財政規律、収支黒字『単年度でなく数年』試される市場の信認」という見出しの記事を掲載しました。
記事によれば、高市早苗首相がプライマリーバランス(PB)の単年度黒字化目標を「数年単位でバランスを確認する方向に見直す」と表明したことを受け、政府の積極財政が「財政規律の緩み」であるとして、市場の信認が試される――という論調を展開しています。
しかし、このような報道姿勢こそ、主流派経済学に染みついた「財政神話」を無批判に踏襲する典型例です。
同紙が当然視する「財政規律」とは、政府財政をあたかも家計簿のようにみなし、「税収の範囲内で支出を抑えねばならない」とする前提に立っています。
しかしながら、これは貨幣の本質を誤解した、まさに商品貨幣論的錯覚に基づく見方にほかなりません。
近代貨幣制度は「金銀やモノとの交換」ではなく、「国家の信用にもとづく債務記録」として成り立っています。
つまり、貨幣とはもともと政府の債務(IOU)であり、税を納めるために国民が必要とする「公的債務証書」なのです。
したがって、政府の支出こそが貨幣の最初の発行行為であり、税とはその回収手段にすぎません。
この順序を理解すれば、「支出のために税収が必要だ」という発想は、完全に逆立ちしていることがわかります。
財政赤字とは、政府部門の債務であると同時に民間部門の黒字でもあり、国家の赤字が増えるということは、国民の所得と資産が増えるということにほかなりません。
それを「財政の緩み」と非難するのは、国家の信用創造機能をまったく理解していない証拠です。
むしろ、「PB黒字化」を至上目標とする政策こそが、国民経済を縮小させる緊縮財政の病理を固定化してきたのです。
さらに、日経の記事が持ち出す「市場の信認」という言葉も、極めて欺瞞的です。
そもそも「市場」とは、国家が発行する法貨のもとでしか成立しません。
通貨発行権を有する政府が、自国通貨建ての債務を履行できなくなることはありえず、「市場の信認を失えば国債が暴落する」といった脅し文句は、通貨主権国家の現実を無視した金融レトリックにすぎない。
むしろ信認を問うべきは、市場ではなく国民です。
政府が国民の生活と生産を支えるために適切な投資を行っているかどうか――その一点こそが、真の「信認」の対象であるべきです。
国家財政の目的は、帳簿上の均衡ではなく、実体経済の安定と繁栄です。
主流派経済学が唱える「健全財政」とは、単なる支出抑制の美名であり、その結果として、インフラは老朽化し、実質賃金は伸びず、社会は疲弊してきました。
一方、「機能的財政」の立場に立てば、財政の健全性とは国民経済に与える効果によって判断されるべきものです。
支出を拡大しても、失業率を下げ、実質賃金を引き上げるなど、明確な社会的リターンを生むならば、それこそが真の健全財政です。
問うべきは「市場の信認」ではなく、「国民の信認」です。
そして、真に問われているのは、主流派経済学という虚構に依拠し続ける既存メディアのほうではないでしょうか。
政府の財政運営を論ずる前に、まずは自らの前提を問い直す――その知的誠実さこそが、いま最も試されている信認なのです。


