一昨日(令和7年11月5日)の参議院本会議における代表質問で、立憲民主党の水岡俊一氏は次のように述べました。
「今年は戦後80年です。この節目に、石破前総理によって発表された『戦後80年所感』においては、なぜ日本は戦争を止められなかったのか、政治はいかなる役割を果たし、果たさなかったのか、という国家の統治構造そのものに対する反省が示されました」。
水岡氏は、戦争を止められなかった政治の責任と統治構造の欠陥を問うていたように見えましたが、その語調は、あたかも「日本にその意思さえなければ、戦争は避けられた」と言いたげでもありました。
しかし、歴史とはそのように単純なものではありません。
我が国が大東亜戦争へと至った背景を、単に「戦争を望んだから」と説明するのは、歴史の複雑な現実を見誤ることになります。
戦争は国家の意思によってではなく、国際秩序の構造とその変化によって生み出されることを、私たちは改めて理解する必要があります。
第一次世界大戦後、米国を中心とするワシントン体制は、海軍軍縮と門戸開放を柱とする国際協調の秩序を築きました。
しかし、1929年の世界恐慌を契機に、各国は自国経済を守るために関税を引き上げ、経済圏を囲い込みます。
英国は「帝国特恵関税」によるスターリング・ブロックを形成し、フランスやドイツもそれぞれの植民地・衛星国を束ねました。
こうして世界は、複数のブロック経済圏に分断された「構造的不安定期」へと突入していきます。
日本は資源をほとんど持たず、石油・鉄鉱石・ゴムなどを海外に依存していました。
ブロック経済が進むなかで、日本は市場と資源の双方へのアクセスを失い、経済的に孤立していきます。
すなわち、当時の日本は「戦争を望んだ」のではなく、国の存立をかけて「いかに生きる経済空間を確保するか」という現実的な課題に直面していたのです。
加えて、米国による対日輸出制限や石油禁輸は、国家の存立を脅かす経済封鎖となりました。
この時点で戦争は、もはや「意思」ではなく「構造」の帰結として、避けがたいものになっていったのです。
もちろん、当時の政治指導者たちに誤りがなかったわけではありません。
しかし、国家の誤りを「意思の弱さ」や「判断の愚かさ」に還元することは、構造的圧力を無視した空想的議論にすぎません。
戦争の本質は、国家の選択が構造的制約によって狭められたときに噴出する現象にあります。
だからこそ、戦争を防ぐ鍵は「善意」ではなく、「構造を読む力」にあるのです。
平和は願えば続くものではありません。
国際秩序の変化を見抜き、国家としての選択肢を確保することこそ、真の平和構築への道です。
大東亜戦争の悲劇は、構造を誤読した国家の帰結であり、現代の日本が再び同じ轍を踏まないためには、構造を正しく認識し、孤立を避けるための「政治の意思」と「国家の戦略」が不可欠なのです。


