報復の循環と覇権の影――イスラエルとパレスチナの現実

報復の循環と覇権の影――イスラエルとパレスチナの現実

イスラエル軍は、ガザ地区南部への空爆を再開したと発表しました。

和平合意の第1段階が実現したばかりのタイミングで、再び戦火が上がったことになります。

イスラエル側は「ハマスが合意に違反した」と主張し、関連施設への攻撃を正当化しています。

米国のニュースサイト「アクシオス」は、イスラエルが今回の空爆を事前にトランプ政権に通告したが、承認は求めなかったと報じています。

また、イスラエル占領下のヨルダン川西岸では、サッカーをしていた10歳のパレスチナ人の少年がイスラエル兵に射殺されるという痛ましい事件も起きました。

イスラエル軍は「石を投げつける住民と対峙する中で発砲した」と説明していますが、無邪気に遊んでいた子どもの命が奪われたという事実は、あまりに重いものです。

この一連の出来事は、長く続く対立がいまなお無辜の市民を巻き込み続けている現実を象徴しています。

ハマスによる2023年10月7日の越境攻撃では、イスラエル側で約1,200人が犠牲となりました。

一方、イスラエルの報復攻撃によって、ガザ地区では数万人規模の死者が報告され、その多くが女性や子どもを含む一般市民です。

街は瓦礫と化し、電力も水も断たれ、医療施設さえ崩壊の危機にあります。

どちらの側に正義があるとしても、最も多く血を流しているのは市民であり、罪なき人々であることに変わりはありません。

イスラエルには、テロに対する防衛権があることは確かです。

しかし、比例原則と区別原則という国際人道法の観点からも、「行き過ぎではないか」との国際社会の疑念も高まり、米国国内ですらイスラエル擁護一辺倒の姿勢に疑問の声が上がっています。

この地域の紛争がこれほど長く続いているのは、単なる領土争いではなく、民族・宗教・歴史が複雑に絡み合っているからです。

互いの主張にはそれぞれに理由があり、どちらか一方を全面的に非難することは容易ではありません。

さらに、大国などの利害も絡み、紛争はしばしば「代理戦争」の様相を呈します。

武器が流通し、政治が感情を煽り、平和の道筋が見えなくなる――それがこの地域の現実です。

この紛争が終わらない理由は、宗教や民族の違いだけにとどまりません。

確かに、ユダヤ教徒とイスラム教徒という宗教的・民族的な帰属意識は、争いの象徴となっていますが、それはあくまで表層であって、根底にはもっと複雑な構造があります。

たとえば、ある国や勢力(たとえばAとB)が争うとき、どちらかが先に攻撃を仕掛ければ、その行為に接した自国民は激しく怒り、政府や指導者への支持を強めます。

「ハマスが越境してイスラエルの一般市民を殺害した」という出来事が起これば、イスラエル国民の怒りが高まり、「ハマスを許すな」と結束するわけです。

そして報復が行われ、今度はB側の一般市民が犠牲となり、「イスラエルはひどい」「仕返しを」と感情が燃え上がる。

こうして「怒り→支持→報復→怒り」という悪循環が繰り返され、終わりのない報復の連鎖が生まれるのです。

その際、指導者自身が戦場で戦うことはなく、犠牲になるのはいつも一般市民です。

この構図は、しばしば政治的な人気取りや支持率維持の手段として利用されることもあります。

さらに、そこに経済的な利害構造も重なります。

戦争が続けば武器が売れ、軍需産業が潤い、その企業に投資する巨大金融資本――ウォール街やロンドンのシティ――までもが利益を得ることになります。

こうして戦争は、悲劇であると同時に、定期的に「商機」を生む仕組みに組み込まれてしまっているのが実状です。

そして忘れてはならないのは、こうした構造が決して現代だけの現象ではないということです。

第一次世界大戦後の英仏による中東分割、冷戦期の米ソによる勢力圏の奪い合い、そして今なお続く代理戦争の連鎖――。

中東は常に大国の覇権構造の下に置かれ、イスラエルとパレスチナの人々はその渦中で犠牲を強いられてきました。

すなわち、この地域を覆う「覇権の影」は、過去から現在へと途切れることなく続いているのです。