全国で道路、橋梁、上下水道などの社会インフラが一斉に老朽化の時期を迎えています。
この危機を、民間企業が新たなビジネスチャンスとして見つめ始めています。
例えば、通信工事大手のミライト・ワンが、中堅建設会社の西武建設や測量大手の国際航業を相次いで傘下に収め、自治体から道路や橋梁の包括的維持管理を受託する体制を整えました。
表面的には合理的な企業統合のように見えますが、その背景には日本の財政思想の歪みがあります。
それは、「税は財源である」という思い込みです。
この誤解が、政府と自治体の支出を縛り、公共直営の力を弱め、その空白を民間が埋めるという構造をつくり出しました。
本来、公共事業は国民の生命と生活を守るために行われるものであり、市場原理とは一線を画す存在でした。
ところが、いまや公共投資の縮小やPFI、PPP、包括委託の拡大によって、公共事業が企業資本に吸収されつつあります。
公共事業が企業の収益指標の中で再定義されれば、採算性の低い地方事業や、防災・保全といった不採算分野が切り捨てられ、短期的な利益を優先する経営判断が国民生活の基盤を左右するようになります。
一方、企業の統合や再編は短期的には安定をもたらしますが、その先にあるのは日本の技術力と人材力の喪失です。
西武建設や国際航業には、戦後の復興期から培われた現場技術、測量ノウハウ、そして公共への使命感が蓄積されてきました。
これらの技術が企業資本のもとに吸収され、収益性という基準で再編されれば、インフラの品質そのものが低下し、国民の安全に直結する危険があります。
橋梁やトンネル、上下水道、河川施設などは、点検や補修を怠ればわずかな劣化が大事故につながります。
それを支えるのは熟練した技術者と、公共への倫理観です。
もし彼らがリストラや統合のなかで失われれば、「見えないインフラの劣化」が静かに進行し、やがては生活の安心そのものが脅かされるでしょう。
さらに、公共事業の大型委託や長期契約が進めば、地元中小企業が排除されるという新たな問題も生まれます。
かつて地域の建設業者は、自治体との信頼関係を通じて地域雇用を支え、地域経済を循環させてきました。
しかし包括委託の仕組みでは、全国展開する大企業しか応札できず、地元企業が公共事業から締め出されます。
結果として地域経済の自立が奪われ、所得が失われます。
そしてもう一つ、公共サービスが企業の収益事業となれば、企業は利益を確保するためにコスト削減や料金引き上げを行うようになります。
国民は質の低下したサービスに、より高い対価を払わされる構図が生まれるのです。
こうした流れの根本原因は、「政府は税収の範囲でしか支出できない」という誤った財政観にあります。
実際には、政府は自国通貨建ての支出を制約されない存在です。
支出が先に行われ、税はその回収・調整の手段にすぎません。
したがって、財源不足が原因で公共事業ができないのではなく、財政規律という虚構が行政の支出意欲を奪っているのです。
この思い込みのもとで公共事業を削減し続けた結果、公共の責任が市場へと転嫁され、民間資本による公共の私物化が進みました。
財政を絞ることで、公共を企業の手に委ねてしまったのです。
地方自治体は通貨を発行できなくとも、「歳出が先にあり、税が後にある(スペンディング・ファースト)」という点では中央政府と同様であり、国の支出を媒介して地域に公共投資の血流を通わせる役割を担っています。
ゆえに私は、公共事業を「技術と人材の継承装置」として位置づけ、自治体直営の技術職を再建し、民間に依存しすぎない行政力を回復することを訴えてきました。
そのためには、地方交付税交付金や国庫補助の充実、地方債の発行上限や借り換え基準の緩和、あるいは地方債の日銀買い取りなどを国に求めなければなりません。
これらを実行できなければ、自治体は公共の代行者ではなく、市場の下請けへと転落してしまいます。
公共事業とは、国民の命と暮らしを守るための国家の意思そのものです。
それが企業資本に吸収され、利益の論理に支配されるとき、社会の根幹は静かに崩壊していきます。
公共事業を企業資本に吸収させてはなりません。
それは、公共という理念そのものを失うことを意味します。
老朽化をチャンスに変える企業が現れる今こそ、自治体と国は「市場ではなく公共が社会を支える」という原点を取り戻すべきです。
公共事業は国民の共有財であり、その使命は利益の創出ではなく、未来の安全と生活の保障にあります。
国民の生活と安全を守るために、公共事業の私物化に歯止めをかけ、公共を再び「公のもの」として取り戻す政治が求められています。