数式では反論できない「文脈」

数式では反論できない「文脈」

経済学の世界では、同じ「貨幣」を語っていても、その見方がまったく異なります。

とりわけ、主流派経済学とMMT(現代貨幣理論)のあいだには、決定的な違いがあります。

一言で言えば、主流派経済学は貨幣を「脱文脈化」した理論であり、MMTは貨幣を「再文脈化」した理論です。

「脱文脈化」という言葉は少し難しく聞こえるかもしれませんが、要するにこういうことです。

主流派経済学では、貨幣は単なる取引の道具、あるいは便利な潤滑油のように扱われます。

つまり、貨幣そのものに意味や背景はなく、誰が発行しようが、どんな社会で使われようが、「おカネはおカネ」として経済モデルの中に登場します。

この考え方では、貨幣はまるで社会から切り離された「無色透明の存在」です。

国家や制度、信頼や文化といった現実の要素は、ほとんど考慮されません。

それが「貨幣の脱文脈化」です。

貨幣が、現実社会から切り離された抽象的な存在になってしまったのです。

一方、MMT(現代貨幣理論)はこう考えます。

おカネは、誰かが勝手に作って流しているわけではありません。

国家が「この通貨で税を納めなさい」と決め、その制度を守る法や行政機構があり、国民がその仕組みを信頼しているからこそ、おカネは社会の中で意味をもち、流通するのです。

つまり、貨幣は政治・制度・社会の文脈の中に生きている存在です。

これを「貨幣の文脈化(または再文脈化)」といいます。

MMTは、「おカネがどうやって価値を持つのか」を、実際の国家運営や社会制度と結びつけて説明する理論なのです。

この「貨幣の文脈化」という考え方は、実は経済学者ニコラス・カルドアが提唱した内生的貨幣理論にもつながっています。

カルドアは、貨幣とは中央銀行が外から供給するものではなく、人々の経済活動――つまり、銀行による貸出や企業の投資といった信用取引の中から内生的に生まれるものだと考えました。

おカネは経済の外から与えられるのではなく、経済の内側で人々の行動とともに生み出される、いわば「生きた社会関係」なのです。

MMTは、このカルドアの考えをさらに発展させ、貨幣を国家の制度・法・信頼と結びつけて理解しました。

こうして、貨幣は単なる記号ではなく、社会の中に根を張って機能する存在として再び文脈化されたのです。

私たちの日常を見ても、経済はけっして市場だけで完結していません。

税金を納める、年金を受け取る、公共事業で雇用が生まれる、これらはすべて、国家という制度の中で動いています。

もしこの制度的な文脈を無視して「市場だけ」で経済を説明しようとすれば、それは現実を切り取った「机上の空論」になってしまいます。

だからこそ、MMTは貨幣を現実の文脈へと取り戻そうとするのです。

貨幣とは、国家・社会・信頼という文脈の上で初めて意味を持つ。

それがMMTの基本的な立場です。

主流派経済学は、貨幣を社会から切り離して考える「脱文脈化」の理論。

MMTは、貨幣を制度や社会の中に戻して考える「再文脈化」の理論。

経済を現実に引き戻すこと、それがMMTが現代において果たしている最も重要な役割なのだと思います。