きのうの稿では、縄文時代には食糧増産のための投資が必要なかったことを述べました。
本日は一転して、我が国を含むユーラシア世界で「食糧増産のための投資」がどのように始まったのかを考えてみたいと思います。
紀元前4000年頃、ユーラシア各地で農耕が始まりました。
地図を眺めると、農耕の発祥地は横帯状に広がっており、これは気候が類似していたためです。
メソポタミアやエジプトといった地域は、現在は砂漠化してしまいましたが、かつては森林地帯で自然の生産力が高く、日本の縄文時代と同じような環境でした。
小麦の栽培は偶然から始まったと言われています。
野生種の中で「風に飛ばされず茎に残る」「実が大きい」「脱穀が容易」といった人間に都合のよい性質を持つ個体が選ばれ、長い年月をかけて栽培種として定着しました。
つまり、今日私たちが食している農作物は、いずれも過去の人類が「人間に適した特徴」を選び抜いた結果にほかなりません。
農耕は狩猟採集よりも低生産性でしたが、そこに牛や馬、羊、豚といった家畜の飼育が加わると状況は一変しました。
家畜は耕作の労力を軽減し、その糞尿は肥料となって収穫量を押し上げます。
さらに穀物は離乳食として利用でき、子どもの成長が早まり多産化を促しました。
その結果、人口は急増し、やがて土地と水を奪い合う争いが生じます。
つまり「農耕と人口増加」が、戦争の起点となったのです。
農耕には大規模な投資が必要でした。
灌漑設備や水路、田畑の整備といった事業は、村人の総力を結集しなければ成し得ません。
その過程で官僚組織が生まれ、階級社会が形成されました。
結果として「権力」が発生し、村と村の境界は侵食され、侵略が始まります。
また、穀物依存は食生活の多様性を失わせるリスクも伴いました。
洪水や旱魃があれば一気に収穫は失われ、村々は争いを避けられなくなりました。
その果てに、防壁や堀を築き、敗者が奴隷化される社会が出現します。
日本の縄文文明は、豊富で多様な食資源を持ち、労働時間は1日4時間程度であったとも言われています。
その余裕が複雑な縄文土器や土偶といった芸術を生み出しました。
しかし、弥生時代に稲作が始まると状況は一変します。
稲作は水田整備という大規模投資を前提とし、人々は忙しくなり、土器はシンプルな形へと変わっていきました。
日本人は「小麦の家畜」にはならなかったものの、「イネの家畜」となった、と言えるでしょう。
農耕は、人類に飢餓のリスクを軽減する力を与えましたが、その代わりに戦争と権力をもたらしました。
「人類は小麦の家畜となった」と言われるように、私たちの生活は穀物を中心に組み立てられ、労働・組織・社会構造が大きく変容しました。
縄文時代の「村際主義」ともいえる平和的な暮らしは終わり、投資と組織化を前提とした農耕文明が、国という形態を生み出していったのです。