きのうの稿でも申し上げましたとおり、人間にとって最も必要不可欠な財は水と食糧です。
ペルシア風に言えば「水と土」であり、すなわち水と土地という資源へのアクセスは、生存そのものを左右します。
もしそれらへのアクセスを失えば、人は生きるすべを失ってしまうのです。
こうした事情は、決して現代に限ったものではありません。
人類が穀物を生産し始めたときから、いやその以前から続いてきた根源的な問題なのです。
そのことを考えるうえで、私は日本の縄文文明に光を当てたいと思います。
縄文時代は稲作を本格的に始める前の時代です。
もちろん栗の栽培など一部の営みは存在しましたが、かんがい設備や水路、貯水池といった大規模な投資を伴う穀物生産は行われていませんでした。
彼らは自然の恵みを巧みに活かして生きており、木の実の収穫、漁労による魚介類の採取、狩猟による肉の獲得を通じて食糧を得ていました。
貝やタコ、ナマコやウニまで口にしていたと伝えられています。こうして共同体のなかで生産と分配が営まれていたのです。
穀物を生産しない生活のもう一つの特徴は、人口増加が抑制されていたことです。
穀物がなければ離乳食を作れないため、赤ん坊は長く母乳に頼らざるを得ません。
母親は授乳期間中、次の子を妊娠しないため、結果として人口は自然の生産力に見合った水準に維持されました。
実際に縄文時代を通じて人口は大きく増えることはなく、増加が始まるのは弥生時代、穀物生産が本格化してからのことです。
これは「人口が増えないことは不幸か幸福か」という議論を別にすれば、投資を必要としないという点で極めて合理的なシステムであったと言えるでしょう。
さらに注目すべきは、縄文文明が一万年以上も続いたという事実です。
その間に蓄積されたノウハウは膨大で、いつどこで何を採取すれば最も適切に食糧を確保できるかという知識が共有されていたはずです。
今日の私たちよりも、彼らの自然への感覚ははるかに鋭かったに違いありません。
水と食糧――つまり水と土へのアクセスは、昔も今も人間の存続を左右する根源的な課題であり、縄文文明の知恵を振り返ることは、現代の私たちにとっても大いなる示唆を与えてくれるのではないでしょうか。