近年、川崎市議会においても「もっと英語の授業時間を増やし、英会話力を高めるべきだ」と主張する議員が少なからずおられます。
確かに国際交流の機会は増え、旅行や仕事の場で英語が役立つこともあるでしょう。
しかし、だからといって「英会話力」だけを教育の中心に据えて授業時間を増やすことには、私は断固して反対します。
そもそも、日本人の英語下手は英語教育の失敗ではありません。
私たちにとって英語は、日常生活において使う必然性が乏しいからにほかならない。
たとえば、幕末のころ、わが国は欧米列強の圧力に直面しており、とりわけ1808年のフェートン号事件や1840年のアヘン戦争は、当時世界を席巻していた英国の存在を強烈に意識させ、英語習得の必要性を痛感させていました。
明治政府は外国人教師を招き、英語によって西洋の学問を導入しましたが、それでは知識がごく一部の人々にしか届きません。
そこで日本は、西洋の膨大な知識を日本語に翻訳し、母語で学べる体制を築いたのです。
その結果、わが国は有色人種で唯一、母国語だけで近代国家を運営し、高等教育を成立させてきた国となりました。
日本語によって高度な学問を展開できる体制を整えたことこそ、むしろ世界に誇るべき歴史的事実なのです。
さらに、言語は単なる道具ではなく、民族の実存に関わる重大な問題です。
実際、チベットでは母語を奪われまいと、焼身自殺にまで及んで中共政府に抵抗する人々がいます。
言語とは民族の魂であり、それを軽視して「ビジネスのために多国語を公用語化せよ」と迫ることは、まさに具の骨頂であると言わねばなりません。
英会話中心の教育を一律に強化すれば、他の教科に割く時間が削られ、国語や理数系科目の基礎力低下を招きかねない。
しかも「英語ができる」とは、単に会話ができることを意味するのではなく、真に必要なのは、基本的な文法を理解し、自分の考えを筋道立てて文章にでき、論理的に説明できる力です。
英会話だけなら訓練である程度身につきますが、それだけでは討論や文章作成には太刀打ちできません。
国際的な場で日本の立場をしっかり説明できる人材を育てるには、会話よりも基盤となる読解力・作文力の養成が欠かせないのは当然です。
したがって、すべての子どもに高水準の英語力を強制する必要はなく、一般の市民にとっては、旅行や生活に困らない程度の基礎英語で十分です。
一方、将来国際舞台で活躍する少数精鋭には、徹底した英語の専門教育を用意すべきです。
英語教育は「全員一律の英会話漬け」ではなく、目的と水準を明確に分けて設計することが重要なのです。
くりかえしますが、英会話力の強化だけを目的に授業時間を増やすことは、子どもたちの貴重な学びを奪う危険があります。
大切なのは、母語である日本語を基盤としつつ、必要に応じて論理的に英語を使える人材を育てることです。
英語偏重に陥らず、多様な学びの中で自分の考えを国語力によって深め、国際社会に自信を持って発信できる力を身につけさせる教育でなければならないのです。