『週刊新潮』で長年にわたり続いてきた高山正之氏の名物コラム「変見自在」が、2025年8月28日号をもって連載を終了しました。
終了の理由として公式な説明はなされていませんが、コラムの内容をめぐって「排外主義を助長する」との批判や抗議の声が寄せられていたことが背景にあるとされています。
新潮社はそうした声を重く受け止め、連載終了を判断したものとみられます。
まことに残念でなりません。
この出来事は、日本の言論空間が一層萎縮している現実を象徴しているのではないでしょうか。
一方、評論家の中野剛志氏が、今年1月に上梓した『政策の哲学』のなかで、同様の問題意識を示しています。
氏は、従来の主流派経済学が現実を無視した理論体系に堕していることを哲学的観点から批判しつつ、わが国の言論空間は歪んでいる、と警鐘を鳴らしています。
たとえば、従来の主流派経済学に対し「非現実的である」との批判を行えば、主流派は「科学とはそういうものだ」と開き直るわけですが、中野氏はこの姿勢に対し「そもそも科学とは何か」という根源的な問いを提起します。
若手研究者はまず学問の権威に学び、その上で批判を積み重ねるべきですが、現実には論文採択に有利な「巧妙なシステム」の中で、学問本来の営みから逸脱しているとも指摘します。
その結果、誤った方法論に縛られ、正しい問題設定ができない状況に陥っていると。
だからこそ中野氏は、優れた学者に必要な資質として「答えを出す能力」よりも「問題設定能力」を重視しろ、と言っています。
なるほど、この「問題設定能力」こそが、停滞した社会を打破する鍵であり、新しい視点を取り入れる契機になるわけです。
つまり、現代貨幣理論(MMT)のような新しい議論が出てきた際に、それを頭ごなしに否定するのではなく、誠実に議論する姿勢が求められるのです。
安易な拒絶は社会全体の停滞を招き、健全な言論空間を失わせることになる、と中野氏は強調します。
高山氏のコラム終了と中野氏の指摘は、表現や学問が直面する共通の危機を示しています。
それは、異論や挑戦的な言説が「不快だから」「危険だから」と排除される風潮です。
本来、健全な社会における言論は、多様な視点を競い合わせ、互いに批判し合うことで成熟していくものです。
しかし、いま私たちの社会では、異論を排除し、批判を封じる空気が強まっています。
このままでは、日本の言論空間はますます萎縮し、社会の活力を失ってしまうでしょう。
言論の自由を守る努力を怠れば、日本社会の未来は閉ざされかねません。
逆に、それを守り抜くことこそ、社会を前進させる確かな原動力となるのです。