わが街にある川崎競馬は、川崎市と神奈川県が共同で運営する「神奈川県川崎競馬組合」が主催しています。
その歩みは昭和25年にさかのぼり、地方財政の健全化や産業振興を目的に設立された神奈川県公営事務所が母体となりました。
しかし、公営競技を取り巻く環境は厳しく、平成16年度末には累積赤字が36億円に達するなど、存続すら危ぶまれた時期もありました。
それでも関係者の懸命な努力により、平成25年度には累積赤字を解消し、平成27年度からは収益を神奈川県と川崎市に還元するまでに回復しました。
このように川崎競馬は、地域の公共事業として苦難を乗り越えてきた歴史を持っています。
日本に近代競馬が紹介されたのは幕末、文久2年(1862年)の横浜居留地でした。
欧米人が自らの娯楽として競馬を行い、社交の場として発展していきました。
観客の日本人はその新奇な光景に驚きましたが、あくまで主役は外国人で、日本人は競馬の主体となることはできませんでした。
これに対し、大きな転換点となったのが明治2年(1869年)、靖國神社の前身である招魂社での競馬です。
例大祭の余興として催されたこの競馬は、日本人が主体となって洋式競馬を行った最初の事例でした。
その舞台が靖國神社であったことは、意外に思われるかもしれません。
競馬は娯楽にとどまるものではなく、軍馬改良や馬術訓練といった実利的な側面を持ち、国家の近代化政策とも結びついていました。
そこには、近代国家を築こうとする明治政府の戦略も込められていました。
靖國神社は戦没者を祀る厳粛な場であると同時に、新しい時代を象徴する空間でもありました。
ここで西洋式の競馬を行うことは、軍事と文化を結びつけ、「近代化の象徴」として国民に示す演出でもあったのです。
横浜の居留地競馬が「異国の見世物」であったのに対し、靖國神社の競馬は「日本人自身が担い手となった近代競馬」であり、その意義はまったく異なるものでした。
こうしてみると、靖國神社は単なる祭祀空間にとどまらず、日本人主体の近代競馬の出発点であり、同時に近代化を象徴する場として歴史に刻まれています。
横浜で外国人が楽しんだ競馬から、靖國神社で日本人が主催する競馬へ、その歩みは、日本が西洋文化を外から眺める立場から、自らの文化として取り入れる主体へと変わったことを象徴しています。
今日の川崎競馬をはじめとする地方競馬の営みも、こうした歴史の延長線上にあります。
靖國神社に響いた蹄の音は、余興の響きにとどまるものではなく、日本が近代国家として歩み出す足音でもあったのです。