祭祀とは、先祖を祀り、祖霊を敬うという、日本に特有の精神であり、太古から日本社会の基盤を形づくってきました。
血のつながりを大切にする観念は、「家族の延長が村落であり、村落の延長が国家である」という世界観を支えてきたのです。
たとえば「日琉同祖論」なども、血縁を遡れば国民すべてが親戚であるという発想に基づいています。
一方、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など、唯一絶対の神を崇める一神教は、自らの神以外を認めない排他的性質を持っています。
その結果、歴史の中で幾度も宗教戦争を引き起こしてきました。
今日のイスラエルとパレスチナの紛争も、宗教的対立が根底にあります。
信仰が人々を結びつけるどころか、しばしば分断と流血を生んできたのです。
それに対して我が国は、神武天皇以来、祭祀を通じて国をまとめてきました。
日本における統一は、武力や宗教によるものではなく、先祖を祀る「祭祀」の精神によって支えられてきたのです。
まさに、宗教は戦争を起こすが、祭祀は戦争を起こさないのです。
とりわけ、天皇が「祭祀王」であることが、国民の心を結び、国内の平和を保ってきました。
西洋が宗教と軍事による統合を目指したのに対し、日本は祭祀による統合を志向してきた点に、決定的な違いがあります。
この考え方は近代以降にも現れています。
明治時代の琉球処分や韓国併合も、西洋列強の植民地化とは異なり、宗教的な押し付けではなく、祭祀的な結びつきを根拠にしていました。
朝鮮半島においては鉄道や発電所、学校などの社会基盤を整備し、生活水準を引き上げる政策を推進しており、これは白人列強の搾取型植民地政策とは本質的に異なるものです。
さらに、大東亜共栄圏の理念も、日本的な「祭祀」の発想を背景にしています。
西洋の帝国主義に対抗し、東アジアの諸民族が協力し合い、それぞれの伝統と独立を守ろうとする思想でした。
大東亜共同宣言には「相互にその伝統を尊重し」「人種的差別を撤廃する」と明記されています。
ここには、西洋の支配的・差別的な植民地主義とは一線を画す日本の姿勢が表れています。
また、「八紘一宇(はっこういちう)」という言葉は、「世界を一つの家と見なし、人類はみな兄弟である」という思想を示すものです。
この理念もまた、日本人が古来大切にしてきた祭祀の精神から生まれました。
すなわち、人と人との血縁的・精神的つながりを重んじることこそが、日本の平和思想の根幹だったのです。
しかし現代社会を振り返ると、核家族化や地域共同体の崩壊によって、かつてのような「血のつながりを意識する社会」は急速に失われつつあります。
高齢者の孤独死や地域の断絶、家庭内の分断は、いずれも祭祀的精神の衰退と無縁ではありません。
本来、祭祀は「自分はどこから来たのか」「誰とつながっているのか」を確認し、人間同士を穏やかに結びつける営みでした。
親を敬い、祖先を思う心は、そのまま地域社会や国家への帰属意識に通じます。
そこには排他性はなく、むしろ「人は皆つながっている」という包摂的な精神がありました。
だからこそ、グローバル化と個人主義が進む現代において、改めて「祭祀の精神」を再評価する必要があります。
家族や地域社会のつながりを大切にし、祖先を敬う文化を取り戻すことができれば、日本社会の基盤は再び強固なものとなるでしょう。
宗教が争いを呼び起こす一方で、祭祀は人々を結び、和をもたらします。
21世紀を生きる私たちが直面する社会の不安や分断を解きほぐす鍵も、実は古代から脈々と受け継がれてきた「祭祀の精神」にこそあります。