慶応義塾大学大学院教授の小幡績氏は「政府の借金は国民の資産であり心配ない」という議論をウソだと断じています。
しかし、そもそも主流派経済学が前提としているモデル自体が現実を正しく反映していません。
政府の債務不履行を前提に国民が資産を失うという説明は、自国通貨建て国債の仕組みを根本的に誤解しています。
日本のように自国通貨で国債を発行できる国は、財源を租税に求める必要はなく、政府が国債を償還できないという前提自体が誤っています。
むしろ問題は収支の均衡ではなく、財政が国民経済にどのような影響を与えるかという点であり、借金の額を心配する議論は本質を外れています。
そして「国債は国内保有だからギリシャとは違う」という議論を小幡氏は否定していますが、ここでも非現実的なモデルが前提になっています。
ギリシャ危機は対外債務によるものですが、日本の国債は自国通貨建てで国内に保有されています。
これを「むしろ深刻」とするのは、通貨発行権という国家の根本的な力を無視しているからです。
経済を人間関係のネットワークとして捉えるならば、国内での資金循環はむしろ強靱性を高めるものであり、危機の要因とみなすのは誤りです。
さらに「日銀を統合政府とみなせば国債は消える」という重要な論点についても、小幡氏は否定しています。
しかし、ここでも主流派経済学の枠組みが問題です。
日銀が国債を買い取れば、確かに帳簿上の形を変えるだけですが、それが意味するのは「政府は自国通貨建ての債務について制御可能である」という事実です。
これを単に「借金は減らない」と片づけるのは、貨幣を単なるモノのように捉える主流派経済学の限界を示しています。
貨幣は本来、債権者と債務者という人間関係から生まれる負債であり、政府と中央銀行の関係はまさにその象徴です。
また「国債は将来世代へのツケではない」という理論についても、小幡氏はウソだと批判します。
将来世代が税を負担するという発想は、政府の財政をあたかも家計のように考えることから生じています。
前述のとおり、自国通貨を発行できる政府は、将来世代の負担を前提にして財政運営をしているわけではありません。
むしろ、いまの世代が適切な財政出動を怠れば、将来世代に失業や不況という形で大きな負担を残すことになります。
貨幣と財政を誤って理解することが、世代間の不要な対立を生み出しています。
最後に「自国通貨建ての国債はデフォルトしない」という考えをも小幡氏はウソだと述べ、ハイパーインフレの可能性を強調します。
しかし、この指摘は問題をすり替えています。
確かに供給能力を超えた過剰な財政出動はインフレ(需要超過型インフレ)をもたらしますが、それは制御不能な破綻ではなく、需要と供給の調整を通じて政策的に対応可能な課題です。
インフレリスクとデフォルトリスクを混同することは、貨幣の本質を理解していない主流派経済学特有の誤りです。
要するに、小幡氏の主張は一見すると現実的な警告のように見えますが、その根底には主流派経済学が抱える非現実的な前提があります。
貨幣を単なるモノとして捉え、人間関係や社会的文脈を欠いた理論からは、正しい財政論は導かれません。
国家は万能ではありませんが、必要不可欠な存在であり、財政の役割もまた人間社会に根ざしたものです。
経済学は「偽りの科学」ではなく、現実の人間と社会を理解するための学問として再構築されるべきです。