私は川崎市議会議員に初当選して以来、本市教育委員会が発行する副読本(学習教材)の記述について、繰り返し修正を求めてきました。
たとえば、本市の副読本には、現在も「稲作は朝鮮半島や中国から移り住んだ人々によって伝わった」と記されています。
しかし、稲の原産地は揚子江中流域または下流域の温暖な地域であり、ソウルの寒冷な気候は、日本と比べても稲作には適していません。
稲は縄文時代後期(約4000年前)にはオカボとして栽培されていましたが、水田稲作は紀元前300年よりもはるか以前に九州で始まっていたと確実視されています。
佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは、約2600年前、すなわち縄文時代晩期から弥生時代にかけての水田跡や炭化米が出土しています。
そもそも朝鮮半島起源説は、同半島が自国文化の起源を主張する姿勢に迎合したものであり、稲が南方植物であることや高床式住居の存在から見ても不自然です。
稲作は九州と朝鮮南部にほぼ同時期に伝わった可能性が高く、その中心は九州であり、周辺的な一部が朝鮮南部に伝わったと考えるべきです。
そのうえで、水田稲作を基盤とした弥生「文明」は、九州から数百年をかけて北上し、最終的には津軽海峡にまで広がっていきました。
とはいえ、東北の人々の暮らしが全面的に縄文から弥生へと切り替わったわけではありません。
縄文のライフスタイルを維持し、多種多様な食材を用いた暮らしを続けていた人々は、やがて「蝦夷」と呼ばれるようになります。
古代日本の史書には「東人」としてしばしば登場し、主に戦士として活躍しました。
当時の日本では東に行けば行くほど人々は頑強であったと記されており、それは穀物中心の食生活ではなく肉や魚を取り入れていたからでしょう。
動物性たんぱく質は男性ホルモンを増やしたと考えられ、それが体毛の濃さにも影響した可能性があります。
蝦夷が縄文時代からの食文化を守っていたのであれば、大和王朝の人々より体格的に特徴が異なって当然です。
一方、ユネスコ世界文化遺産に登録された北海道・北東北の縄文遺跡群の代表は青森県の三内丸山遺跡です。
そこから出土したおよそ1万5千年前の土器が現存しているという事実は、縄文文化の厚みを物語っています。
ところが戦後教育は、こうした歴史の厚みを排除し、「紀元前300年ごろ、暗黒の縄文時代であった日本に、たちまちにして渡来人が稲作文明をもたらした…」という物語を教え込んできました。
繰り返しますが、これは根拠の薄い説であり、事実に反するものと言わざるを得ません。
日本独自の文化発展を過小評価し、外来の要素を過大に位置づける視点が教育の中に組み込まれてきたのです。
前述の菜畑遺跡のほか、近年の発掘成果は、この通説を覆すものとなっています。
2019年に奈良県御所市の中西遺跡から弥生前期の大規模な水田跡が発見されました。
この遺跡は約2400年前のものとされ、高度な技術と計画性をもって築かれていたことがわかりました。
また日本書紀に記された大和国の起源との関連性も論じられています。
要するに、日本での稲作開始は、弥生時代よりも前の縄文時代にまでさかのぼることが確実となっています。
つまり、外来文明の単純な導入ではなく、縄文からの連続性をもって日本独自の農耕文化が形成されていったのです。
縄文から弥生への転換は、およそ千年をかけて進行した大きな文明の変化でした。
狩猟採集から農耕へと移行することは、投資を必要とする経済システムへの転換を意味し、その過程で災害による資産の破壊、人口増加に伴う土地争い、さらには戦争といった新たなリスクが生まれました。
弥生時代に始まった投資依存型の社会構造は、現代に至るまで続いており、疫病、格差、戦争といった問題を生み出しています。
それに比べれば、縄文文明は多様な食材を活用し、安定した食料供給の基盤を持っていた点で、現代日本よりもむしろ高い食の安全保障を実現していたといえるのです。
さて、本市教育委員会が発行する副読本ですが、今日では「今から2500年ごろに、現在の中国や朝鮮半島から移り住んだ人々から伝わり、日本各地に広がっていった」と改められました。
しかし依然として近年の発掘成果と整合しておらず、しかも九州と朝鮮南部にほぼ同時期に伝わった可能性については触れられていません。
そのため教育現場で誤解を与えかねない記述となっており、早急な是正が求められます。