80年前の今日、午前8時15分。
広島の空に、直径150メートルにも及ぶ巨大な火の玉が出現しました。
それは、世界で初めて人類が核兵器を実戦使用した瞬間でした。
爆心地から半径500メートル以内の人々は、摂氏4,000度の熱線に焼き尽くされ、年末までに約14万人が命を落としました。
やがてその数は、後遺症による死者も含め20数万人にのぼるとされています。
原爆の投下命令は、ポツダム宣言が発せられるよりも前の7月24日、トルーマン大統領によって承認されていました。
つまり、「日本がポツダム宣言の受諾を拒否したから原爆を落とされた」という説明は、歴史的事実に反します。
実際、日本政府は宣言が届く以前から、ソ連に講和の仲介を求めており、アメリカも日本の降伏意志を暗号解読によって把握していたのです。
にもかかわらず、米国は「日本が降伏する前に原爆を投下せよ」と急いだのです。
さらに、広島が「軍港だったから仕方がなかった」という主張も成り立ちません。
爆心地は市街地の病院であり、原爆の破壊力を考えれば、そこが軍港であったかどうかは、もはや意味を成しません。
被害を測定するため、空襲被害の少ない都市が意図的に選ばれたのです。
そして3日後には、今度はプルトニウム型の原爆が長崎に投下され、効果の違いを測定するという、まさに人体実験のような行為が繰り返されました。
広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、現在もワシントンD.C.にあるスミソニアン航空宇宙博物館に常設展示されています。
この博物館は、米国の科学技術の栄光を象徴する場であり、その中でエノラ・ゲイは誇らしげに飾られています。
日本人にとって、この事実は決して忘れてはならないものです。
原爆投下によって戦争が終わったのではありません。
あの瞬間から、戦争は「軍隊と軍隊の戦い」ではなく、「民間人を対象としたジェノサイド」へと変質したのです。
「平和利用」と称して原発を受け入れさせられ、「平和憲法」として占領憲法を押しつけられた日本。
そこには、原爆という絶対的暴力による威嚇があったのです。
私たちは、あの日の惨劇を思い起こすとともに、原爆をめぐる「語られなかった真実(敵である占領勢力と日本の敗戦利得者によって語ることを禁圧された真実)」にこそ、真に向き合わなければなりません。