昨今の政治状況を見て、改めて痛感するのは、占領憲法下における内閣総理大臣という存在の異様なまでの強さです。
たとえ与党内部から不満の声が噴き出したとしても、首相本人が自ら辞意を示さない限り、これを制度的に辞任させる明確な手段は、ほとんど存在しません。
信じがたいことかもしれませんが、これは紛れもない事実です。
一方、大日本帝国憲法下の首相というのは、今日のように権力を独占できる立場ではありませんでした。
閣僚の一人が辞任を表明すれば、内閣全体が総辞職となり、元老会議から不信任を受ければ即座に退陣。
首相はあくまで「内閣の一員」に過ぎず、個人として政権に居座り続けることなど不可能だったのです。
対して、占領憲法下ではむしろ逆です。
かつて小泉内閣において、郵政民営化に異論を唱えた閣僚は、即刻罷免されました。
今日の首相は、制度上も実質上も、帝国憲法時代の首相よりもはるかに強大な権限を持っていると言わざるを得ません。
にもかかわらず、「帝国憲法=軍国主義憲法」とする短絡的な誤解はいまだ根強く残っています。
しかし、実際にはそうではありません。
たとえば、帝国憲法第20条が定めた「兵役の義務」も、徴兵制を直接義務付けた条文ではなく、国防への協力義務を定めたものにすぎません。
招集の方法は法律で定めることになっており、志願制も排除されていません。
国民の国防義務そのものは、占領憲法の下でも同様に存在する概念です。
したがって、占領憲法下であっても、法律によって徴兵制を敷くことは理論上、十分に可能なのです。
こうした法制度の下で、今日の総理大臣は、帝国憲法時代の首相よりも格段に強い権力を有しています。
その現実を、いったいどれほどの国民が自覚しているのでしょうか。
自民党は衆議院選挙での過半数割れに続き、参議院選挙でも大敗を喫しました。
これを受けて両院議員懇談会が開かれましたが、そこでは当然のごとく、選挙の最高責任者である石破首相の責任問題が厳しく追及されました。
懇談会では64名が発言し、そのうち9割以上が「総裁を辞任すべき」との意見を述べたといいます。
続投を求める声は、わずか5~6名にとどまりました。
つまり、自民党内においても、石破氏の続投を支持する声はごくわずかであるということです。
にもかかわらず、石破氏はこの期に及んで「続投の意向に変わりはない」と明言しました。
これほどまでに道義的責任を自覚していない首相が、果たして政権を担う資格があるのでしょうか。
制度上、総理大臣は与党第一党の総裁が務めるのが通例です。
したがって、石破氏が総理で居られるのは、「自民党が彼を総裁として認めていること」が大前提です。
しかし現実には、その自民党の9割以上の国会議員が、彼の辞任を求めているのです。
このような状況において、彼が総裁であり続けることは道義的に正当化されません。
当然ながら、総理大臣であることも正当化されないのです。
仮に世論の一部に「石破辞めるな」という声があったとしても、それは本質的な論点ではありません。
重要なのは、選挙という民主主義の根幹において、自民党が否定され、その総裁である石破氏が国民から責任を問われているという事実です。
石破氏が総理であり続けることを、国民世論の趨勢はすでに否定しています。
にもかかわらず、その職に固執し続けるのであれば、もはや彼は、総裁としての資格も、政治家としての資格も、いや、日本社会の一員としての最低限の道義的資格すら失っていると言わざるを得ません。
一国民として、私は彼に即刻の辞任を求めます。
彼がそれを拒むのであれば、自民党の全ての国会議員に対し、彼を辞任させる行動を強く求めたいと思います。
それでもなお、党としてその是正すらできないのであれば、自民党という政党の存在意義そのものが根底から問われます。
そのときは、国民の一人として、自民党に解党を求めざるを得ません。
この問題の根底には、首相の権力構造と責任の不均衡という制度的欠陥が潜んでいます。
だからこそ、次の国政選挙では、私たち一人ひとりが、真に政権を託すに値する政党と政治家を見極め、誠実な一票を投じなければなりません。
それこそが、民主主義の矜持であり、私たちの国を守る唯一の道です。