自由貿易の幻想とその代償

自由貿易の幻想とその代償

7月22日、日米通商交渉が妥結しました。

日本は、自動車関税の引き下げや数量制限の回避を実現しましたが、米国は追加的な農産物輸入や巨額の対米投資を獲得しました。

このうち、農産物の追加輸入は、米国との通商関係を円滑に保つうえで一定の役割を果たすかもしれませんが、日本の食料安全保障や農業基盤に深刻な影響を及ぼすおそれがあります。

安価な輸入農産物の流入は、国内農家の経営を圧迫し、農業の多面的機能(国土保全、地域経済、食文化の維持など)を損なう結果にもつながりかねません。

とりわけ中山間地域では、その影響が、地域の暮らしや共同体の存続をも揺るがします。

このように、短期的な通商上の成果の陰で長期的な国益が損なわれることのないよう、冷静かつ戦略的な判断が求められます。

一見すれば、この交渉は関税引き下げと引き換えに何を差し出すかという、単なる取引のようにも見えます。

しかし、ここで注視すべきは、交渉の背後にある戦略的意図であり、それは「グローバル・インバランス」の是正という、より本質的な課題に根ざしているように思われます。

グローバル・インバランスとは、一方に民間債務に依存して恒常的に経常赤字を拡大する国があり、他方に、その赤字国への輸出に依存して経済成長を遂げる国があるという、構造的な経済的不均衡を意味します。

これは単に各国の経済政策が不適切であるという問題ではなく、無制限な自由貿易と資本移動を前提とするグローバリズムそのものが抱える制度的な欠陥であると見るべきです。

実際、輸出主導を国策とする国々は、為替レートの管理や賃金の抑制、さらには非関税障壁の設置といった手段を通じて、自国の経済利益を最大化する政策を採ってきました。

その結果として、輸出主導型の先進国では巨額の経常黒字と中間所得層の破壊が進む一方で、米国のような赤字国でも、国内産業の衰退、雇用の喪失、地域社会の崩壊といった深刻な社会的影響がもたらされてきました。

こうした不均衡が放置された結果、米国ではグローバリズムに対する強い反発が生まれ、それが保護主義的な潮流や「アメリカ・ファースト」の通商政策を生み出す温床となりました。

このような政策は、単なる国内向けの人気取りではなく、むしろ世界経済の根幹にある歪みを是正しようとする試みに他なりません。

関税の導入や貿易制限措置は、そのような構造的矛盾に対する反動であり、短期的な利益誘導ではなく、持続可能な国際秩序の再構築に向けた一手と位置づけることができます。

この不均衡が持続してきた背景には、「基軸通貨ドル」という制度的構造があります。

米国は、ドルを国際準備通貨として発行できる特権を有しており、世界各国がドルを保有し続ける限り、貿易赤字を恒常的に維持することが可能となります。

この仕組みは、世界経済に流動性を供給するという点で一定の役割を果たしてきましたが、同時に、米国の消費過剰と他国の貯蓄依存を制度的に温存し、グローバル・インバランスの長期化を招いてきました。

このような状況を是正するためには、単なる国際協調や市場原理依存では不可能であり、国家による主体的かつ明確な政策介入が不可欠です。

貿易赤字国は、自国産業の再建に向けて関税や国内投資促進策を講じ、経済的自立を目指すべきです。

他方、貿易黒字国に対しては、内需の拡大を促すとともに、自由貿易という建前のもとで国家が市場任せにしてきた構造的な不均衡を正すよう、明確に是正を迫る必要があります。

とりわけ日本は、米国との経常黒字を縮小するために内需を拡大するとともに、米国の輸入縮小によって市場を失いつつある東南アジア諸国からの財やサービスの輸入を戦略的に拡大すべきです。

これは、グローバル・インバランスの是正に資するのみならず、アジアにおける信頼と経済的安定を支える外交的意義も持っています。

究極的には、各国が自国の経済主権と国民の生活を守るという観点に立ち返り、経済ナショナリズムを再評価することが、世界全体として持続可能な経済秩序を築くための前提条件となるでしょう。

通商交渉は、表向きは数字と取引の応酬でありながらも、その裏側では経済思想の根幹がせめぎ合っています。

今回の合意が浮き彫りにしたのは、自由貿易という名のもとに積み上げられてきた不均衡への根本的な問い直しであり、世界経済が新たな均衡点を模索し始めていることを示す、まさに歴史的な転機といえるでしょう。