日本人が日本人でなくなる日

日本人が日本人でなくなる日

国民国家とは、ナショナル・アイデンティティを自発的に選び取る人々の主体的かつ積極的な意識、すなわち「ナショナリズム」を基盤とする国家形態です。

誠に遺憾ながら、「ナショナリズム」を「民族主義」や「国家主義」と誤訳・誤解している向きが、メディア関係者にも少なくありません。

しかし、正しい議論は、正確な言葉の定義の上にしか成り立ちません。

そもそもナショナリズムとは、nation(国民)+ism(主義)であり、state(国家)+ism(国家主義)とは本質的に異なります。

nationとは、人種・民族・宗教・階級の違いを超えて、「国民(同胞)」として協力し合い、国家という運命共同体を築こうとする主体を指します。

したがって、人種や民族を理由に差別をしたり、優劣を設けたりする思想や行動は、ナショナリズムに明確に反します。

それにもかかわらず、メディアの多くは、ナショナリストをレイシストと同一視するという過ちを繰り返しています。

これは単なる誤解では済まず、政治的・文化的混乱を招く深刻な誤報と言わざるを得ません。

ナショナル・アイデンティティの保持は、人間性の根幹に関わる本質的な条件であり、それを否定することは、人間そのものを否定するに等しい行為です。

したがって、国民国家を守るとは、ナショナル・アイデンティティを守ることであり、それはすなわち人間を守ることでもあります。

人間であるためには愛国者でなければならず、そして愛国心は、国家の独立なしには成立し得ないのです。

ゆえに、国家の独立を保つことこそ、政治の根源的な使命にほかなりません。

また、国民国家にはそれぞれの国固有の歴史や伝統に根ざした「国体」があります。

当然、我が国にも独自の国体があります。

我が国の国体とは、神話の時代から続く天皇の統治のもと、天皇が民の安寧を祈りつつ皇土を治め、その皇土に生きる民が祭祀を通して祖先や自然とつながる社会の形です。

そこから生まれた家族観や道徳観なども、国体を成す要素です。

そして、この国体を明文化したものが「憲法」です。

たとえば、聖徳太子によって制定された「憲法十七条」も、当時の日本の国体を言語化したものでした。

幕末、我が国は列強による侵略の危機に直面し、急ぎ近代国家へと移行せざるを得ない状況に置かれました。

これに伴い、近代国家にふさわしい憲法の制定が急務となり、明治天皇より「国憲起草を命ずるの勅語」が下されます。

伊藤博文らは欧州諸国を訪れ、近代憲法の理念と制度を学びました。

その過程で、ドイツの法学者グナイストは彼らに、「憲法とは、その国の歴史・伝統・文化に立脚していなければならない。よって、憲法を作る前に、自国の歴史を学ぶことが不可欠である」と助言しました。

まさにその通りであり、憲法を意味する英語の「constitution」が「国体」の訳語でもあるのは、まさにこの理由によります。

その後、伊藤らは10年余をかけて我が国の歴史・伝統・文化、すなわち国体を精緻に分析し、それを成文化したのが大日本帝國憲法です。

ところが現在の憲法、すなわち日本国憲法は、終戦後GHQにより押し付けられたものであり、大日本帝國憲法を無視して作られた「占領憲法」にほかなりません。

言うまでもなく、この占領憲法は「降伏憲法」であり、我が国の国体をまったく反映していないのです。

我が国の国体と無縁なこの憲法を戴き続ける限り、日本人が日本人としての自己認識を喪失し、やがて国民国家としての土台を失っていくのは、避けがたい歴史的帰結と言わざるを得ません。