ロシア・ウクライナ戦争も、イラン・イスラエル戦争も、ともに第三次世界大戦の前哨戦なのかもしれない。
未だ「戦後」気分の抜けない呑気な日本ですが、いよいよ不確実性が増し、混迷の一途をたどるであろう現実の国際政治の中にあって、いかにして国益を守っていくのか。
残念ながら国政を預かる国会議員たちからは、その明確な戦略は聞こえてこない。
ここで言う「国益」とは、主権線と利益線で構成されます。
例えば「主権線を守る」とは、国民の生命と財産、そして国土と主権のほか、先人たちが築き上げてきたわが国の歴史、文化、伝統、名誉をも守ることにほかならない。
中共及びコリアは今なお「日本は侵略戦争を反省せよ」と言ってきますが、これこそ明らかにわが国の主権線への攻撃です。
しっかりとカウンターパンチを加えなければなりません。
相手が侵略と思い込むのはご勝手な話ですが、少なくとも昭和26年5月、米国の上院(軍事外交委員会)で演説したマッカーサーは「日本が戦争(大東亜戦争)をはじめた目的は主として安全保障上の必要にせまられてのことだった」と証言しています。
要するに敵の大将が「日本は侵略のために戦争したんじゃない」と言っているわけです。
よって、この事実を国の内外に知らしめ喧伝することが、わが国の国益(主権線)を守るということにもなります。
そうすると今度は「秀吉だって侵略してきたじゃないか…」と、豊臣秀吉による『唐入り(朝鮮出兵)』を持ち出してくる。
実は、秀吉が朝鮮に出兵した理由については説が複数あり謎も多い。
よく言われているのは、秀吉によって天下が統一されたことで家臣たちが合戦の場(領土拡張の機会)を失った。
ゆえに「家臣たちの領土拡張意欲の捌け口として大陸に進出したのだ!?」というもの。
あるいは、ただ単に「秀吉の征服意欲から出兵した!?」というのもあります。
私が最も有力だと思う説は、スペインとポルトガルに対抗するため、です。
もともと秀吉は朝鮮の征服などには関心がありませんでした。
秀吉に朝鮮を武力制圧するつもりなどさらさらなく、あくまでも明を征服するための通り道と考え、現地人に道案内をするよう求めただけでした。
しかし結果的に朝鮮を武力制圧しなければならなくなったのは、朝鮮が秀吉の「道案内をしてほしい」という要求を拒んだからです。
もしも朝鮮が秀吉の要求を飲んで「道案内」をしてくれていれば、不要な戦争をする必要はなかったと思われます。
では、なぜ秀吉が明を征服対象にしたのか。
大航海時代とも言われた当時、スペインとポルトガルは世界中に植民地を拡大していきました。
むろん、その手は東アジアにも伸びて、例えばフィリピンはスペインの植民地、ティモールはポルトガルの植民地といった具合です。
当然のことながら日本(黄金の国ジパング)も植民地にする予定でしたが、当時の日本は世界有数の軍事大国であったため簡単には侵略できませんでした。
そこで彼らは、まず貿易で利を食らわせ、その見返りにキリスト教の布教を認めさせ、封建領主を尽くキリスト教に改宗させることで領土と領民の征服を試みました。
大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、高山右近らは、まさにその典型です。
キリシタン大名と呼ばれた彼らの領地では、神社仏閣は破壊され、領土は次々に教会に寄進され、多くの日本人が奴隷として外国に売られていったのです。
九州においてその光景を目の当たりにした秀吉は激怒し、日本の主権線を守るために「バテレン追放令」を出したわけです。
この時点で秀吉は「このままではスペインとポルトガルに征服されてしまうかもしれない…」と悟っていたにちがいない。
実際、スペインのフィリピン総督は、1976年(信長が安土城の築城を開始した年)に「明で貿易拠点を確保するために軍事侵攻すべき」とスペイン国王に上申し、他の宣教師からも「明国人がなかなか改宗しないので武力征服したほうがいい」との意見が相次いだ、という記録が残っています。
もしもスペインやポルトガルが先に明を征服してしまった場合、大船団を組んで日本に上陸攻撃を仕掛けてくることが可能になり、まさに日露戦争直前の状況と同じです。
その情報をキャッチした秀吉は機先を制するために『唐入り(明の征服)』に踏み切ったのではないでしょうか。
要するに、秀吉の『唐入り』は大東亜戦争のはじまりだったのです。