臨機応変を旨とせよ

臨機応変を旨とせよ

本日、川崎市議会(予算審査特別委員会)で質問に立ちます。

予定している質問内容は、①道路整備(川崎縦貫道路第二期と外かく環状道路との接続)について、②医療問題について、③上下水道局の不可解な職員処分について、④川崎市の行っている都市イメージ調査について、です。

持ち時間は30分ですので、もしかすると時間が足りず、途中までになってしまうかもしれません。

質問に立つ時間帯は、17:30以降になると思われます。

川崎市議会のサイトから、ネット中継もございますので、ぜひご覧ください。

kawasaki-city.stream.jfit.co.jp

さて、本日は3月10日は、わが国にとって「陸軍記念日」でもあることをご存知でしょうか。

なぜ、この日が「陸軍記念日」になったかというと、日露戦争真っ只中の1905(明治38)年の今日、現在の中国瀋陽(当時は奉天)において、おそらくはナポレオンでさえ驚いたであろう人類史上最大とも言える陸上戦が行われ、わが帝国陸軍がロシア陸軍に対して大勝利を収めたからです。

帝政ロシアといえば、世界最強と言われたコサック騎兵が有名ですが、それを打ち破ることができた最大の功労者は、何と言っても帝国陸軍騎兵第一旅団を率いてた秋山好古(あきやま よしふる)将軍です。

好古は、日本海海戦でバルチック艦隊を迎撃した「丁字戦法」を立案した秋山真之の実兄です。

実際、客観的にみてもコサック騎兵は、技術・装備ともに当時の日本騎兵に勝っていました。

そもそも日本人は、徳川の260年間、騎兵戦の経験がまったくなく、馬も戦闘用には改良されていませんでした。

むろん、維新後には騎兵を導入するとともに輸入馬の調教に励み、日清戦争では日本騎兵が活躍したのですが、ロシアのコサック騎兵の強さに比べれば大清帝国の騎兵など比較にならず、勝利して当然といったところでしょう。

しかしながら、ロシアのコサック騎兵が相手となるとそうはいきません。

そんなコサック騎兵に対し、秋山好古は最初から「勝ち目なし」としていました。

ある意味、ここが凄いところです。

コサック騎兵のことを調査すればするほどに日本騎兵とコサック騎兵の強さの差が浮かび上がり、戦いを前にして秋山好古は絶望しかけていたのですが、彼は名案を思いつきます。

なんと、当時のヨーロッパで開発されていた機関銃を導入したのです。

機関銃はフランスで発明されたもので、発明当初はドイツとの戦争で大敗したために「役に立たぬ兵器」の烙印をおされていたのですが、その後の改良によって有益な武器に変貌していました。

フランスに留学していた秋山好古は、そのへんの事情をよく知っていたのでしょう。

彼は騎兵としての実力では圧倒的に劣る日本騎兵に機関銃を持たせ、コサック騎兵と戦うときには馬から降りて戦う、という結論に達したのです。

馬上で戦うことが本分である騎兵に「戦うときは馬から降りろ」と言うのですから、もはや騎兵でさえない。

要するに従来の常識を覆したわけです。

なるほど騎兵本来の戦い方では勝ち目がないのだったら、騎兵本来の戦い方をすればいい、というわけです。

結果、秋山好古の思惑どおり、この戦術は絶大の効果を上げました。

こうして日本騎兵は、コサック騎兵の攻撃を完全に封じて、ロシア軍の索敵行動も補給線の突破も許しませんでした。

これがなければ奉天での日本陸軍の大勝利はなかったことでしょう。

まさに「臨機応変を旨とせよ」というやつで、いつの時代でも政治行政に携わる者にとっての大切な心得でもあります。

残念ながら1945(昭和20)年の3月10日、大東亜戦争中の米軍はこの日、東京大空襲(東京大虐殺)を断行しました。

以来、この日はわが国にとって慰霊の日となりました。

むろん米国は、3月10日が「陸軍記念日」であることを知った上で敢えてこの日に大虐殺を決行したのです。