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国家とインフラによって守られている「人権」

国家の階層

いわゆる「人権」運動家は国家が嫌いです。

彼ら彼女らにとって国家は人権を抑圧する存在だと考えられているからでしょうが、現実は全くの逆で国家の存在こそが個人の権利を保障してくれています。

国家も共同体も存在しない無人島で文明の利器を捨て一人で生存を確保してみよ!

そこで「人権」を振りかざしたところで実に虚しいものです。

運良く野生動物に襲われなかったとしても、いいところ一ヶ月も生きられないでしょう。

個人の権利を認めてくれる共同体(国家)の存在があってこそ、はじめて「人権」なるものを主張できるのです。

文明の利器を捨て…と言ったのは、文明の利器でさえも国家という共同体の存在により成立しているからです。

例えば文明の利器を生産するために必要な電気、ガス、水道などのインフラを整備・維持しているのもまた国家という共同体です。

即ち、私たち日本国民の安全な生活は、国土とインフラ、そして国土とインフラによって支えられている各種の産業によって支えられているわけです。

因みに、インフラには2種類あります。

一つは、道路、橋梁、トンネル、鉄道、港湾、送電網、上下水道などのハードウェアとしてのインフラ。

もう一つは、国防、治安、教育、医療や介護等の福祉、通貨制度などのソフトウェアとしてインフラです。

ゆえに国民生活は、①国土、②ハード的インフラ、③ソフト的インフラ、④各種産業、という各階層の上に成り立っていることになります。

重要なのは、ハードウェアであれ、ソフトウェアであれ、インフラは個人の力では絶対に整備できないことです。

古代ローマの繁栄だって、ローマ人たちがインフラの重要性を何よりも認識していたからにほかならず、洋の東西、時の古今を問わず、国家(共同体)とインフラと国民生活は絶対に切り離すことのできない関係なのです。

しかしながら、人権運動家とともにグローバリスト、ネオリベラリスト(新自由主義者)、主流派経済学者(新古典派経済学)たちもまた国家の存在が嫌いです。

とはいえ、現実には国家の存在を否定するわけにもいかないから、彼ら彼女らは「小さな政府」という実にご尤もらしい概念をこしらえて国民生活を守るための各種規制を緩和撤廃し、公的インフラの運営についても自由化・民営化しようとする。

それも「今だけ、カネだけ、自分だけ」根性をむき出しにして…

むろん、そのことが彼ら彼女らのビジネス上の利益になるからです。

こうした手合から、日本国民のための各種のインフラを守るのが国民により選ばれた「議員」の役割りであるはずです。

残念ながら、現在の日本では国であれ地方であれ議員の多くがネオリベラリスト、もしくはネオリベラリズムに洗脳された人たちで占められているから世も末です。
2020/10/28

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