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いわゆる「罰則付きヘイト条例」について

現在、川崎市議会(12月定例会)に提案されている「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例案」、いわゆる「罰則付きヘイト条例」について、以下、私の考えを述べます。

<川崎のイメージを損ねる悍ましきデモ騒ぎ>

川崎市では、平成25年5月12日から平成28年1月31日までの期間、計12回にわたり、JR川崎駅前の繁華街を中心とする川崎市内で、在日韓国・朝鮮人の排斥を訴えるデモが実施されました。

中でも、平成27年11月8日と平成28年1月31日のデモは、それぞれ、「川崎発!日本浄化デモ」、「川崎発!日本浄化デモ第二弾」などと銘が打たれ、在日韓国・朝鮮人を対象に、「ゴキブリ朝鮮人は出て行け」「じわじわ真綿で首を絞めてやるからよ」「川崎に住むごみ、ウジ虫、ダニを駆逐するデモを行うことになりました」などの文言が発せられ、拡声機等を複数台使用するなどして騒々しくなされました。

デモに反対する者らや警察官が多数いたことで現場は騒然とし、その光景は川崎市の都市イメージ向上に努めてきたものたちにとって、とても看過できるものではありませんでした。

ヘイト

<言葉の定義の大切さ>

これを受け、川崎市議会では平成28年3月18日に「あらゆる差別の撤廃に向けたまちづくりの推進に関する決議」が賛成多数で可決されたのですが、当時、市議会では唯ひとり私だけが反対をしました。

その理由は、むろん民族差別はあってはなりませんが、「ヘイト」の定義を曖昧にしたまま“反ヘイト”を理由(口実)に日本国民の民族的主張が抑圧されることがあってはなりませんし、また「ヘイト」の定義を曖昧にしたまま“反ヘイト”を利用して特定の国家民族の政治的主張が肯定されたり、非日本民族の行状が隠蔽されたりしてはならないと考えたからです。

何よりも定義が曖昧なまま言葉が独り歩きするようなことになれば、まさに「言論の自由」そのものを危うくする可能性があるにもかかわらず、未だ多くのメディアは「ヘイト」という言葉を明確に定義しないまま反ヘイト路線での報道を行っています。

ときに日本のメディアは言葉に対して不誠実なところがあり、当該問題を論じるに当たってはそのことを強く指摘せざるを得ないと思います。

例えば、典型的な事例として、いわゆる「体罰問題」があります。

多くのメディアは「体罰」と「暴力」の違いを曖昧にしたまま「体罰は悪である」と断罪します。

しかしながら、私は「体罰」を「子どもの進歩を目的とした有形力」と定義し、子どもの進歩を目的としない有形力を「暴力=虐待」と定義しています。

因みに「進歩」とは「正しい理性(正しい精神の技術)の獲得」を意味します。

このように、言葉が明確に定義されていれば「体罰は(ハードウェアとして)善である」ことが解り、体罰の仕方、即ちソフトウェアによっては善悪に分かれることが理解できます。

もしもその体罰によって進歩とは無関係に子どもが大怪我をしたのであれば、それは体罰ではなく暴力であり虐待ということになります。

つまり、体罰はその有形力の行使の仕方によって善悪に分かれるということです。

もっと身近な事例を示すと、例えば医療ミスによって手術中に患者が亡くなったとします。

むろん、お亡くなりになった患者さんやご遺族は実に不幸なことですが、それはあくまでも医療行為の仕方(ソフトウェア)に問題があったわけですが、だからといって医療制度というハードウェアそのものを廃止しようという議論にはならないはずです。

ところが、「体罰問題」になると、なぜか日本のメディアは忽ちにこうした思考回路がショートします。

だから、「ヘイト」という言葉が明確に定義されないままに、決議だの条例だの法制化だのという流れが加速しないように拙速な市議会の決議案に反対し、一石を投じようとしたわけです。

<国の法律と川崎市の条例案>

川崎市議会が「あらゆる差別の撤廃に向けたまちづくりの推進に関する決議」を可決した後、即ちその年の6月には、やはり前述の二つのデモ(平成27年11月8日と平成28年1月31日のデモ)が転機となり、横浜地方裁判所川崎支部は「デモ禁止の仮処分決定」(平成28年6月2日)を下し、国においては『本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律』(平成28年6月3日。以下「差別解消法」という。)が施行されました。

因みに、この「差別解消法」を、数年前にその成立が危惧された、いわゆる『人権擁護法案』の焼き直し法ではないかと懸念するむきもありますが、その条文を読む限りあくまでも理念法ですので焼き直し法とは言い難いと思います。

今回、川崎市が議会に提案した「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例案」は、基本的に「差別解消法」に準拠しています。

準拠されていないのは、いわゆる「罰則規定」の部分です。

この罰則規定については、メディアを中心に「言論の自由」の侵害が危惧されているところです。

川崎市当局によれば、この条例が対象としているのは、あくまでも「デモや街頭での演説における本邦外出身者に対する不当な差別的言動」であり、デモや街頭以外の、例えばネットやSNSでの投稿は対象としていない、とのことです。

なお、公共空間におけるデモや街頭での発言を、もしも川崎市当局が不当と判断(「差別解消法」の規定に基づくほか、更に一定の要件を設け限定を加えて判断)した場合は、次のような条例上の手続きがとられるとのことです。

まず、市長は「差別防止対策等審査会」の意見を聴き、条例上の違反行為を行わないように対象者に「勧告」を行う → 対象者がその勧告に従わなかった場合、市長は再び「差別防止対策等審査会」の意見を聴き、条例上の違反行為を行わないように今度は「命令」を下す → それでも対象者が従わなかった場合、市長は対象者の氏名又は団体の名称、住所、団体の代表者等の氏名のほか、命令の内容その他規則で定める事項を公表する → そこではじめて市長は対象者を刑事告発することとなり、検察当局が起訴するかどうかの判断をし、起訴した場合、裁判所が罰則の是非を決定するという流れです。

<放置すれば、再び『人権擁護法案』を求める機運が…>

基本的に私は、本来このような条例はないほうがよいと考えております。

とはいえ、川崎市で起きているような「悍ましきデモ騒ぎ」をこのまま放置しておけば、川崎市の都市イメージを損ねることになるとして、市長は全国初となる「罰則付き条例」の制定を決心したのだと推察します。

そして私が最も危惧しているのは、今回のような「悍ましきデモ騒ぎ」を行政が放置してしまうことで、やがてまたかつての『人権擁護法案』のような、川崎市の条例素案など問題にならないほどの恐ろしき規制法令を求める機運が高まりかねないことです。

例えば『人権擁護法案』は、人権擁護委員がその言動(日本人による非日本人に対する政治的批判)を“人権侵害”と一方的に認定すれば、裁判所の令状なしにその対象者を連行できる、という警察以上の権限を人権擁護委員に付与しようという恐ろしい法案でした。

もしもそのような法令が成立するようなことになれば、かえって日本国民による「非日本人に対する政治的批判」が抑圧されることになり、「言論の自由」どころの話ではなくなります。

したがって、このような法令を求める機運が再び高まるまえに、地域の安全と秩序を預かる地方行政が何らかの措置を講じることは当然の対応であると考えます。

<目的どおりに運用させるのが議会の務め>

一方、川崎市議会を含め地方議会の多くは、議席の過半数を首長与党によって占められております。

よって今後は、川崎市が制定しようとしているような、非日本人に対する不当な言動を伴うデモを取り締まることを目的とした条例が、次々と全国の地方自治体で制定されていくことが予測されます。

ご承知のとおり、多くの自治体首長が実績づくりのために先進条例として他都市で制定されたものと同様の条例を制定していくのが現在の地方行政の実態です。

川崎市が制定しようとしている「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」もまた、その先駆けとなるものです。

そのとき、日本国民の「デモの自由」や「言論の自由」を損なうことなく当該条例を運用することができるのかどうか、そのことがまさに問われるところです。

例えば、罰則を科すに当たっては、科される側に反論の機会が与えられなければならないでしょうし、指弾する勢力の行状について、科される側による説明が十分に為されることも必要でしょう。

なによりも罰則は明確な定義により対象が限定されたものでなければならないと思います。

また、解釈の裁量余地が広ければ広いほど執権者の政治的恣意による運用が可能となり、当該条例が外国勢力による我が国への政治介入の格好の道具にされてしまうことにもつながりかねませんが、当該条例が「差別解消法」の枠を出ない限り、今のところ、その心配はなさそうです。

ただし、仮に原案のまま当該条例が制定されることになるとしても、私は川崎市議会において、次のことだけは主張していきたいと思っています。

1.例え当該条例が制定されようとも、当該条例を利用し、特定の国家・民族・国際団体などが、我が国において我が国に対する政治的主張を展開し、それにより我が国の政治が「彼らの利益」を擁護・拡大するように動かされることがあってはならない。

もしもそれを可能にするような立法行為であるならば、それこそ外患誘致に等しく、決して許されることではない。

2.日本民族とは基幹民族に外来要素が徐々に加わりつつ生成されるものだが、日本民族も非日本民族も共に民族差別を行ってはならならず、当然そうした民族差別は取り締まられる社会にしていかねばならない。

ゆえに非日本民族による日本民族への差別もまた許されない。

3.そもそも差別的行為とみられるような活動が我が国において頻繁に起きているのは、非日本民族による日本民族に対する差別行為と、これを政治が野放しにしてきたことに起因している。

まずはその認識を持つ必要がある。むろん日本民族基幹の前提で諸民族が共存していける社会が望ましいものであることに異論はない。

しかし、そこで重要になるのが、いずこの国においても本邦外出身者はその国において分をわきまえることである。「分」とは即ち「ここは他所様の国であるという慎み」とも言えるが、そのことは日本国民が外国に居住した場合も同様である。

4.我が国は国籍と民族がほぼ一致している世界でも稀な国家である。

つまり民族が国民であり、国民が民族であり、民族国民国家であることが我が国の姿なのである。

日本国民の主幹民族である日本民族は、主幹民族としての存在を維持し発展させる根源的権利を有している。

5.4のような理由から「帰化」とは数世代を経たのちに日本民族に統合されることが前提となる。

むろん異民族が国民として存在することは否定されないが、それは占領憲法の第一条においても規定されているように、天皇を日本国と日本国民統合の象徴として奉戴する前提においてである。

<結言>

歴史を振り返りますと、我が国は第一次世界大戦後のパリ講和会議においても、あるいは大東亜会議においても、「諸民族の平等」を確固として主張してきました。

そして諸民族が自国の流儀(文化)を主権的権利として自国の内に守り発展させることも支持してきました。

非日本民族が我が国において良き隣人として日本民族と共存していける環境を整えることは我が国の政治においてもちろん必要なことであると考えますが、大東亜戦争に敗戦して以降、我が国では日本民族の民族的権利と主張の抑圧によって非日本民族の横暴を日本民族が容認させられる形での共存が強要されてきました。

例えば、東京裁判史観、教科書捏造、靖国破壊をはじめとする内政干渉への屈伏がそうであったように。

近年芽生えてきたそれらに対する日本国民の自覚と抵抗を、もしも「ヘイト」と呼ぶのであれば、それは日本民族への差別・抑圧構造を維持しようとする勢力のあがきに過ぎません。

だからこそ、行政も議員もメディアも、今後一切「ヘイト」の語を使用するべきではないと考えているわけです。

正しい国語を使わず、外国語を安易に使用することは日本民族に対する差別行為といってよい。

因みに、「差別解消法」にも、川崎市が制定しようとしている当該条例案にも、その条文上「ヘイト」という言葉は使用されていないことを付しておきます。

川崎市が制定しようとしている「川崎市差別のない人権尊重のまちづくり条例」は、前述の二回の「悍ましきデモ(平成27年11月8日と平成28年1月31日のデモ)」が二度とこの川崎で繰り返されないことを目的としていますが、これまで述べてきたとおり、今後、原案のまま条例が成立し施行されようとも、その運用には徹底した監視の目を注いでいくことが市議会議員として当然の「責務」だと考えます。

例えば、行政が違反行為に対して勧告や命令、さらには公表や刑事告発といった措置を講じる場合には、当然のことながら市議会の常任委員会にも報告がなされるはずです。

そうした機会を逐一逃すことなく、条例が適正に運用されているのかを監視していかなければならないと思います。

日本国民たる「川崎市民」のために…
2019/12/03